立教大学探検部 部誌

『極限2』(1991年)


 1991年に発行された部誌『極限』の第二弾。
 リバベンのプレ合宿で大破したボートの責任を、なぜか押し付けられた行木を中心に「OBから寄付金を集めてボートを買おう」計画が発動、そのために当時の部員みんなで執筆したもの。だがその赤裸々な内容は、逆に多くのOBを激怒させたとも伝えられる。
 今回キャビネットの奥底から発掘された極限は、退色、磨耗、なんかの食べカス、心無い落書き等による損傷が激しかったが、現代のデジタル技術によりできる限りの復元を試みた次第である。
 テキストは、これまた偶然発見されたフロッピーディスクから回収された断片的な原稿をつなぎ直し、ない部分は手で打ち直して再現した。(行木敬)

序「極限――果てしなき探検の地平に」
目次

1989年 春休み
「洞窟は、生きているよー」沖永良部島洞窟合宿
英霊たちと過ごした暑い春 メキシコ遺跡調査

1989年 前期
樹海に消えた戦慄のクイーン! 富士樹海洞窟合宿
華麗な夜のエスコーター 御嶽激流下り
流したボートは誰のせい? リバベンプレ合宿&リバベン本大会
小袖ウオー・クライ! 小袖洞窟合宿
浜口俊のアーバンサバイバル宣言 江古田病院アーバンサバイバル

1989年 夏休み
男はどこまで強くなれるのか? 瀬戸内海300kmカヌー単独行
詠時感~洞窟へのロマン 沖永良部島洞窟合宿パート2
BACK TO NATURE! 沖縄無人島サバイバル

1989年 後期
好奇心を満たす!それが探検だ! お台場合宿
究極のアーバンサバイバル 銀座・レゲエ合宿

1990年 春休み
世界最深の洞窟発見なるか? イリアンジャヤ洞窟探査の記

1990年 前期
私が言うんだから絶対なのに…… カッパ島合宿
軍神降臨! 御嶽激流下り合宿
いま明かされる真相! 悪いのは誰だ! リバベン不参加事件顛末
ああ、洞窟はスバらしい! 小袖洞窟合宿
ハル春山の丹沢賛歌 丹沢沢登り合宿

1990年 夏休み
ボブ・ディランは泣いていた…… 長良川川下り合宿
考古学界に衝撃! 聖太子の石棺発見! 小豊島遺跡調査合宿
それは神への挑戦か? 瀬戸内海ビート板横断計画
サマー'90 ――まぼろしの夏 第2次沖縄無人島サバイバル

1990年 後期
反省文「アニキの出した2台目のマコト」 富士樹海洞窟合宿
紙袋を抱えたサンタクロース達よ! 第2回浮浪者調査合宿

1991年 春休み
オレの羽ばたく空はイリアンにあった! 第三次イリアンジャヤ洞窟探査
良い人間になんてなりたくない 池袋~日本海徒歩縦断計画
 
あとがき「新たなる栄光に向けて」
寄付者一覧
探検部 顧問・歴代部員・関係者 住所録
極限2
立教大学探検部 活動報告書
1989春~1991春
序 「極限――果てしなき探検の地平に」
吉井靖人
 立教大学探検部の部誌「極限」が創刊されて以来、この20年間もの間に2号が発刊されることはなかった。これはとても残念なことだと思う。現役部員は先輩方々の活動を知ることができなかったし、対外的にも我が部が何をやってきたか知られることがなかった。しかし、現在こうして極限2号を発刊するに当たって部誌を作ることはいかに大変か判った。ほとんどは行木君が書いたもので、彼の類希なる文才と、血のにじむ様な努力が2号を生んだといってもいい。文章は一見すると不真面目に思われるかも知れないが、我々は諸先輩方々の活動に恥じないことをやってきたように思う。
 我々はどんなに馬鹿げたことでもそれに探検的要素を感じる限り、命を張ってやるつもりである。綿密な下調べと運と訓練が探検の成功の鍵であるが、それでも探検には2割ぐらいしか成功と呼べないという宿命がある。あるいはもっと少ないかもしれない。
 自然の前に人間はあまりにも小さく、社会や人間そのものも見通すことは困難である。しかし、我々は未知なるものへのあくなき好奇心を秘めている限り、くじけることも厭わず、極限に向かって新たなる挑戦を仕掛けていくことだろう。自然と人間、この未知なるものに畏敬をもって、絶えざる挑戦をここに誓う。

イリアン・ジャヤの青い空をしたためて
1991年 春 吉井靖人
目次

1989年 春休み
「洞窟は、生きているよー」
沖永良部島洞窟合宿(3/10~24) 吉井百穴マリスト作成の報告書より抜粋
3/10

22:00 宇田川さん遅刻。ライジャケを電車に置き忘れてきてしまいパニック。角田さんにお願い。

22:35 さらば東京!みんな座れてよかった。


3/11

地獄の電車紀行。トランプをして過ごす。言い加減に着いてくれ。

23:00 吉井宅に泊まる。


3/12

15:00 鹿児島港着。17:00にフェリー出発。


3/13

12:00 和泊港着。13:50にバスで知名着。14:30 役場、買い出し。16:45にタクシーでこれからのBC、大山キャンプ場着。

18:00 知名まで買い出しに行くが迷う。
「宇田川さん、あなたについて行きます!」
「そうか、吉井、オレについてこい!」
馬鹿みたいに2時間も歩く二人。
吉井「あの時にボクらの愛は深まりました。」
石木田「ぐーぐー。あんまり遅いんだもん。」
宇田川「結果オーライでいいんじゃない。」
角田「宇田川!『いたけだか』になるなよ!」

22:00 食当開始。22:50夕食、ミーティング。鹿児島大、京都市立芸術大(カップル)、大阪芸術大の人に出会う。ロンリコを貰い石木田大喜び。


3/14

7:00 起床。8:05に朝食。9:40に出発。11:25 昇竜洞着。矢上さんから説明を聞き、他大学資料を見せて貰う。

12:05 桃源洞入洞。二次生成物が少ない洞の上、途中ヘッ電も消えたため、ボクはあまり素晴らしい光景は見られなかった。入洞45分後、行き止まり。石華洞を探すため支洞を攻めたが結局見つからなかった。12:55 出洞。

13:25 昼食。昨日道を教えてくれた人に出会う。「ありがとうございました」

14:50 おじさんの案内で昇竜洞入洞。15:30 入ってすぐの支洞を攻める。ロープが2本以上必要。あの純白のフローストーンの美しさは、今も目に焼き付いて離れない。600mはありそうだったが、それを壊してしまいそうなので200m程で止めた。16:25 一時出洞。

16:50 再入洞(本洞のみ)。17:20出洞。

18:45 BC着。角田さんが待っていた。19:00 食当。宇田川買い出し。21:00夕食。22:00 ミーティング。宇田川さん縄跳びできず、石木田嘲笑。


3/15

6:30 起床。7:30 朝食。9:20 出発。

10:35 角田さんの怪しげな記憶でなんとか昇竜洞着。10:50 入洞。11:15 サンゴ洞に着。10分で攻略完了。ホールがばかでかい。

11:30 白蛇洞着。11:35 縦穴セッティング。12:50 降下開始。13:31 終了。第2テラスでのセッティング開始。14:20 宇田川、ザイルとラダーをつなぎにまた上に登り、角田怒る。14:34 降下開始。15:05 終了。食事。15:20 奥をつめる。15:45 ホールに出る。セッティングに時間を取られなければもっと奥まで行けたのに残念。16:05 第2テラスに戻る。角田ペッツェルで登る。17:10 第1テラスに戻る。17:40 終了。撤収。18:00 出洞。

19:10 BC着。19:20 食当。20:30 食事。ミーティング。酒やつまみが盗まれており、一同怒る。


3/16

移動日。屋子母へ。あいにくの曇り空のため、石木田悲しむ。会計報告。


3/17

6:55 起床。8:00 朝食。9:20 出発。10:50 道を聞くが、島民はいい加減。

11:11 永良部洞着。石木田のヘッ電壊れる。地震まで起こる。

11:23 突入。

12:05 観光洞終わり、第2洞へ。意外と簡単に(?)見つかった。

12:18 小ホール着。狭くなるのでサブザック捨てて進む。12:54 奥のホールに着き、各支洞を攻める。宇田川のヘッ電壊れる。道を間違える。サンゴが痛い。まあまあな洞窟という感じ。目が肥えたのかな。

13:42 出洞。昼飯。

13:57 出発。14:10 BC着。18:50 食当。ミーティング。


3/18

7:00 起床。7:50 朝食。9:33 出発。

10:10 水蓮洞着。駒沢の脇さんと会う。着替え、ボート膨らます。10:30 突入。10:37観光洞終わり、奥へ。11:15 小さい穴→広い所→ストローが沢山ある細道→ホール→クリスマスツリー池。
うーん、この洞窟を最後に持ってきたのは正解だった。中で泳げるなんて、今までの洞窟の概念をふっとばされた思いだ。また、誰も触ったことのない様な鍾乳石がものすごく沢山あった。あの雨の降っている瞬間を魔法で止めた様な光景は忘れられない。「星が降るよう」とはこんな洞窟の事を言うのだろう。水蓮洞はボクを詩人にする。

13:00 出洞。昼食。13:30 出発。

14:10 BC着。16:00 石木田帰る。


3/19

激しい雨のため、屋子母に逃れる。


3/20

フェリーが来ないので、待合所に停滞。


3/21

フェリーが来ないので、自転車を乗り回す。


3/22

沖永良部島発。皆さんホントにありがとうございました。

英霊たちと過ごした暑い春
メキシコ遺跡調査(3/10~24) 関口佳和
 偉大すぎる英霊たちの、偉大すぎる行動、言動に、数限りなく触れることができたメヒコの暑い春……。この合宿を、オレはいったいどんな言葉で語ればいいというのだ!
 今はただ、1枚の写真に全てを込め、俺は生温いバナナ・コン・レチェを飲み干す。
 一杯は、英霊達のこれからのご躍進のために、もう一杯はオレ達のすてきな就職のために……。
 エル・ハポネス! 英霊達よ、永遠に!

1989年 前期
樹海に消えた戦慄の女王クイーン
富士樹海洞窟合宿(4/29~30) 関口ヒロト作成の報告書より抜粋
【記録】
4/28

16:32 BC発。16:50 本栖洞穴着。

17:38 セット完了。降下開始。

18:24 終了。18:30 本栖Ⅰ入洞。

18:47 到着。19:10 本栖Ⅱ入洞。

19:26 到着。19:57 登り開始。20:40 終了。

20:55 撤収。21:13 BC着。


4/29

10:04 BC出発。10:13 氷穴MarkⅠ入洞。

10:41 到着。11:52 氷穴MarkⅡ入洞。

12:33 到着。12:59 撤収。


【評価】
 本年度の新歓合宿は、女性部員の増加や一部の強硬な反対もあって、例年の小袖合宿を中止し、富士樹海が選ばれた。天候に恵まれ、何より車4台出動と言う探検部史上かつてない機動力を発揮した今合宿は、今までで最も華やかで美しい合宿であり、新しい時代の探検部の合宿の指針となるものだろう。(なお、小袖合宿については、廃止論者と擁護派の間で根強い対立があり、宇田川氏の聖断をあおぐもよう。)
 それから吉井! 今だから言えるが、ガメラを忘れたのははっきり言ってオレが悪かった。出発前、そっと電信柱の横に隠しちゃったんだ。でも、ボクと君の愛のパワーでなんとか乗り切ったネ。好きだよ。女子部員のみんな、吉井はボクのものだよ。あしからず。
 夜の出来事については、新入部員の雑感を一つ引用しておこう。

 「僕は広告研究会に入るつもりで、部室をひとつ間違えて隣の探検部に入部させられてしまったのですが、今回の合宿に参加してそれがいかに恐ろしい選択であったかに気付きました。氷の洞窟にも驚いたのですが、それよりも驚いたのは、先輩方、特に女性のキレ方でした。■■先輩はフラリと樹海の奥に消えたまま戻ってこないので、探しに行くと■■■を肛門から5㎝くらい出したまま半■■で倒れているし、■■先輩は二日酔いのまま洞窟に入って、天然記念物の氷柱をあやうくゲロまみれにしてしまうし……。こんな部、■■■■■■だ!」(検閲ズミ)
細谷さん、山本さん、宇田川さん――華麗な夜のエスコーター
御嶽激流下り(5/3~5) 被害者一同
【記録】
5/3

15:30 部室出発。17:45 御嶽駅着。19:00 食事。飲み。


5/4

9:00 1本目出発。(石神前駅11:30~御嶽駅11:30)

14:00 2本目出発。(日向和田駅16:30~御嶽駅17:00)

18:00 OB急襲!飲み。


5/5

9:00 3本目出発。(日向和田駅11:00~御嶽駅11:30)

13:15 撤収完了。15:45 立教着。16:30 300Bで飲み。その後さらに、石木田先輩と新宿で飲む。「オレの味方にならないか」と持ちかけられる。


【評価】
 細谷さん! あなたの勧めてくれたお酒は、ちょっと無骨な愛の味がして、とってもおいしゅうございました。
 山本さん! 「彼」を逃亡させたのは、「介抱とは何か?」について語った時の、熱っぽく潤んでいたあなたの瞳なのかも知れません。
 宇田川さん! 便所の床で翌朝発見されたあなたの姿は、そのまま「生きる」事の厳しさについてのメッセージでした。
 皆さん、素敵な夜を、本当にありがとうございました。
流したボートは誰のせい?
リバベンプレ合宿(5/26~28)&リバベン本大会(6/1~4) 行木敬
 「おい、見ろよ、あのパドルワーク!」
 「立教だ!」
 「ス…スピードの次元が違いすぎる!」
 89年度リバーベンチャー大会前の1コマである。そう、昨年度の雪辱に燃える我々は、プレ、本番前を通じての血の出る様な鍛錬の結果、その技術を、連日の雨による増水も問題としない程に仕上げていたのだった。
 「優勝最有力候補、立教!」「今大会に超大型台風上陸、その名は立大探検部か!」――人々の噂は我々に集中した。だが、そんな世評に慢心することもなく、やがて来たる「その時」もまた、我々はボート技術の訓練に励んでいたのである。
 超難級の瀬を、獲物を狙う黒豹の様なセクシーな動きでクリアして行く我々。当然、目の前に迫った落込みも、ボートに乗っていた吉井、石木田、浜口の正規メンバーにとっては物の数ではない。派手なジャンプが決まった。――だが、次の瞬間、我々が耳にしたものは、「ボコッ」と言う不吉な衝撃音であった。そう、我々のボートは、落込みに隠れた岩石に、その横腹を食い込ませていたのだ。
 巻き返しの恐るべき流圧に、黒い巨体は見る陰もなくねじ曲がり、今やピキピキと末期の歌を歌っていた。とっさの判断でバルブを抜く吉井。ボートの破裂は防げたが、しかし人間はどうする? その時乗り合わせていた私は、巻き返しの恐ろしさについては常々聞かされていたものの、その脱出法についてはまだ教えてもらっていなかった。ふと先輩達を見ると、無造作にバラバラと水中に身を踊らせている。これか! 私は勢いよく激流に飛び込んだ。その時先輩の誰かが叫んだ。「助けてくれ、落っこちまった!」

 その声を最後に私の記憶は途絶えている。気がつくと、私は先程の岩からかなり下流の岸辺で荒い呼吸をしており、そして、ボートはもうそこにはなかった。
 とにかく、NEWボートを失ってしまった我々は、予備に持ってきた空気のすぐ抜ける旧ボートで本大会に臨んだのだが、その結果は、あえてここには記さずにおく。
 新しいゴムボート、20万円……この日から我々の受難の季節が始まったのであった。
小袖ウオー・クライ!
小袖洞窟合宿(6/17~18) 匿名希望
 私にとって小袖合宿は、「千姫」の思い出と切り離せないものだ。――いや、Y氏には大変感謝している。ただ、あまりにそれは突然すぎたのだ。(昼休みに決まって、夕方実行したのだから。)
 英雄色を好む。然らずんば、これは勝利か? ――複雑な気持ちを抱えたまま、私は翌日の小袖合宿に参加した。
 合宿の雨の夜の事は、しこたま酒に酔っていたのではっきりとは思い出せない。ただ、関■先輩を股間に当てがって、その時の一部始終を実演させられた様な気はする。
 「……見たらもう40分経っているんですよ。で、狂ったマシンの様にピッチを上げて……最後は声が出ました、あっは!」 その瞬間、稲妻が走り、私の形のシルエットが浮かび上がる……。
 ――合宿後、部室の壁に誰かがスプレーした「あっは」の文字、あれを見る度に私は、何か苦々しい様な、それでいて楽しかった様な、奇妙な感情に胸をつかまれるのである。

7/1 世界各国の探検部がメッカ立教へ参詣。ついでに報告会がとり行われる。
浜口俊のアーバンサバイバル宣言
江古田病院アーバンサバイバル(7/5) 浜口俊
 探検とは何であろう。辞書を引いてみると「危険を冒して未知なるものを求める」とある。
 我々は今まで川下りや洞窟探検を行ってきた。確かに川下りや洞窟探検は、探検部の中心的な活動である。しかし、日本中の洞窟の中で、まだ人跡未踏のものはいくつあるだろうか? また、川下りに至っては日本中の激流の中で、まだ制覇されたことのないものはいくつあるのか? 他大学の報告書を見ても同じ様な洞窟や川下りの報告ばかりで、「未知なるものを求める」というものからかけはなれている。
 我々にとって未知なるものとは、開発されつくした日本では自然の中より、むしろ都会にあるのではないか? そこにはまだ、どの報告書にもない、またどんな本にものっていないような未知なる世界が広がっているのではないか?
 虚栄心、貧困、犯罪、孤独、精神病超先進国ニッポン。そこには誰もが見向きたがらずに、だからこそ「臭いものにはふた」としてふたされて未知なるものになってしまった、探検する価値のある大都会の遺跡や社会の矛盾がある。その世界にあえて挑もうと言う考えから出てきたのが「アーバンサバイバル」である。もちろん立教大学探検部が他大学に先駆けて初めて行ったもので、今だに他の追づいを許さない独占的領域である。
 以下に実績を挙げる:

・江古田病院廃虚探検

・六本木幽霊トンネル探検

・大井埠頭耐寒合宿

・東京湾お台場探検

・銀座レゲエ合宿

・多摩米軍キャンプ村廃虚探検

・第2回江古田病院探検

・第2回銀座レゲエ合宿

・相模病院廃虚探検

・鶴川団地廃虚探検


 ここではまず、第1回のアーバンサバイバルとなった江古田病院廃虚探検を紹介しよう。

 「内臓を放置したまま廃墟になっている病院がある」――この様な不気味な噂の実態を突き止めるべく、我々は江古田病院廃墟探検を計画した。恐怖、危険度のレベルは小袖鍾乳洞や富士樹海よりもはるかに勝るものだろう。

 深夜11時30分、正門前に集合した浜口以下7名は、車2台に分譲、江古田病院に向かった。現在も開業している病院の裏手にまわり、進入禁止の鉄条網を乗り越える。うっそうとしたジャングルを突き進むと、問題の建物がいきなりその全貌を現した。
 窓ガラスは割れ、壁は朽ち果て、薄ぐらい内部からは木戸が風にきしむ音が聞こえてくる。だが後に引くことはできない。1Fの窓は鉄板で固めてあったので、我々は2Fの窓枠にラダーを掛け進入を開始した。

 ほこりと水の腐ったような臭いの充満する空気の中、我々はまず地下室に向かう。
 葬式の道具が散乱した地下室。かつては霊安室だったと思われるが、しかし、そこには腐った布団や一升瓶、エロ本なども散乱していた。いかにも半年前までは人が住んでいたような気配であった。おそらく変質者であろう。
 次に1Fに上がってみた。この階にはビーカーが散乱している。よくよく見ると、ビーカーのラベルには「S35、佐藤ムネ、肺癌」等と書いてあった。1000個くらいはありそうなビーカーは、たいていが空であったが、中にはひからびた臓器が入っているものもあった。
 2F、3Fもこのような状態であったが、その廊下で、我々は驚くべき物を見ることになる。まだ新しい人間の大便である。こんなところに動物が入れるわけはない。明らかに人間のモノであった。
 誰かがいる! 我々は恐怖に包まれた。

 4Fに上がる。動物実験用の機材が散乱する部屋をめぐるうち、我々は奇妙な物音に気が付いた。我々は勇気と強い正義感をもってその部屋に駆け込んだが、一瞬血の気が引いた。ボロボロの作業服を着た男が、石の塊で何かを叩き壊しているのである。周囲にはかなりの殺気が漂っていた。こちらに背を向けていたため、まだ我々の存在には気づいていないようであった。我々は事故につながらないよう、即撤収することにした。
 2Fの窓から脱出しつつ上を見ると、さっきの男が上からじっと我々を見ていた。最後の一人が脱出を終えるまで注意を引き付けておくため、こちらからにらみ返してやった。

 こうしてこの探検は成功に終わった。その時手に入れた小瓶の中の物体「遠藤」は、今でも部室にあり、我々の守護神となっている。


この頃、リラさん、旅立ちの儀。中国の南海大学へ留学。

1989年 夏休み
男はどこまで強くなれるのか……? その解答こたえがここにある!
瀬戸内海300kmカヌー単独行(8/9~22) 行木敬
 真夏の瀬戸内海……。オレの心の中で、それは今でも熱くきらめき続けている。

 日生の酒場の義兄弟たちよ。酒臭い息で翌朝見送りに来てくれたあなた達のおかげで、最後まで無事に漕ぎとおせました。
 スナメリクジラよ。いきなり真横に浮上したお前は、白くてぶっとい肉の塊で、おまけにニヤっと笑ってて、マジでこわかったぞ。
 タテバ島に一人で暮らしている偏屈じいさん。最初は「化石を盗りに来たのか!」とワケの分からない怒りを燃やしてたくせに、翌朝テントの中に、ナシとビールをねじ込んでくれましたね。本当はいい人だったんだ。ありがとう。
 瀬戸大橋よ! あの渦巻には苦労させてもらったが、おまえをあんな場所から見上げたのは、多分オレが始めてだぞ。
 マナベ島から呉までの海! 島も何もない海域で急に暴風雨になるな! あの時は本当に恐かったんだぞ。
 呉のキチガイよ。掘建て小屋で手料理食べさせてくれた後で、何で殴りかかってきたんだ? 意味が分からないぞ。
 横島のおじいさん。瀬戸内の海流についてのあなたのレクチャーは、方言がひどくて聞き取り辛かったけど、本当に役に立ちました。元気になってまた漁ができるようになるといいですね。
 宮盛のおっさん! テン場になりそうな砂浜まで連れてってくれたのはありがたかったけど、オレの服を最初の海岸に忘れて行っただろう! 「貝パン」一枚で過ごした明け方は意識が遠くなる程寒かったんだぞ。
 大畠の海岸に注射針撒いたバカ! 本当はここがゴールだったのに上陸できなくなったじゃないか! でもそのお陰でもっと遠くまで漕ぎ進めた。結局のところありがとう。
 一人旅の孤独な夜を、一緒に過ごしてくれた月と潮風とフナムシの集団よ。ロマンチックな悪夢に苦しんだのは君達のお陰だ。
 オレのファルトボートよ。無茶苦茶な使い方してごめんよ。リカバリー不可能な海のまん中での沈が一度でもあったらと思うとゾっとする。本当にありがとう。
 そして、最終ゴール地点の室積海岸でカヌーをたたみながら見た夕陽よ! ……ああ、もう書きたくない、おまえの美しさはオレだけの宝物なんだもの。

 詳しいことは下の新聞記事を見てくれ。オレは今、一人で胸いっぱいの追想に浸りたい気分だ。

(山口新聞 1989年8月27日)

詠時感エイジア~洞窟へのロマン
沖永良部島洞窟合宿パート2(8/14~31) ヒロ宇田川
 2週間まるまる洞窟にかけたこの合宿は、長期合宿の醍醐味を存分に味わえるものであった。天気も悪く、また春に続いて2度目と言うこともあったが、玉泉洞の1洞、2洞の規模、2次生成物の美しさ(なんと2m近いストローがあった)は、オレの洞窟へのロマンをいやがおうにもかき立てた。
 「ああ、人間たちの愚かさに比べ、この自然の美は何としたものだろう……!」
 戦時中は防空壕に使われていたとかで、ずいぶんと荒れているものもあったが、あの地底のプールを見たときの気分は、本当に最高のものだった。
 鍾乳洞生成に適したこの地形、地質、しかも、聞けば、宗教上の理由などから位置を明らかにされていないものも多いと言う。つまり、もっと美しい、そしてまだ未探検の洞窟は必ずあるということだ。オレは、この時ばかりは一生を洞窟にかけようと思った。
 辛いこと、悲しいこと、みんな洞窟が忘れさせてくれる。そう、ラダーを投げ込んだその薄暗い穴の底には、きっとオレだけの「幸せ」が待っているはずなのだ。
 「宇田川、行きまあす!」
 「リョーカイ!」
 エイト環が悲鳴をあげる。立ち昇るこげ臭いニオイ……。
 「ヒロヒコ23歳、ただいま『幸せ』に向かって急降下中!」
 「リョーカイ!」
BACK TO NATURE!
沖縄無人島サバイバル(8/29~9/9) 浜口俊作成の報告書より抜粋
ポイント1:行動日程

8/29 那覇YHにて全員集合。

8/30 買い出し。

8/31 座間味島へ。役場に挨拶。無人島(安室島)上陸。やぎおやじ、ツッパリに会う。関東学院大が男女でキャンプに来ていた。

9/1 西側海岸に移動。ろ過器、かまど造り。

9/2 小屋作り。

9/3 島内探検(島一周)。スコール。

9/4 変な奴がくる。

9/5 天気図などつける。

9/6 島内探検(登山)。分散して寝る。

9/7 東側海岸に移動。

9/8 座間味島へ戻る。

9/9 沖縄本島へ戻る。


ポイント2:喰えるもの

魚=白身で皆うまい。

ヤドカリ=たくさんいるがあまりうまくない。

シャコ=一応食べたが評判悪い。

タコ=喰える。ヒョウモンダコには注意。

ウニ=喰える部分が小さく味不明。

トンボ=ぱさぱさしているだけで味不明。

セミ幼虫=宇田川「これはうまい!」

コオロギ=味はよく分からなかった。

バッタ=上に同じ。

アダンの実=多べ過ぎると喉がかゆくなるそうだが、ほんのり甘くおいしい。

アダンの葉=葉の付け根の白い所を煮て食べる。ほとんど無味。


ポイント3:喰えないもの

ヒトデ=くもヒトデと言う不気味な生物。喰える奴はいないだろう。

ナマコ=種類は色々。猛毒。

カニ=猛毒性のものもいて、素人が食べるのはロシアンルーレットなみの危険。

イモリ=これも毒性のものがいる。

ゴキブリ=夜交尾をしている。頭に白い帯がある。繁殖力が強いので食べると奇人変人の二の舞になる。

ホタル=たばこを回すと寄ってくる。猛毒。

ソテツ=実に毒。

海ヘビ=体内に毒。

ヤギ=牧畜している。喰うと法に触れる。


ポイント4:目標達成について
 この合宿に際して立てられた五つの目標は果してどれだけ達成されたか?主観で点数をつけてみた。

①食糧確保
かなり多くの食糧を持って行ったつもりであるがそれでも足りず、結果的に食糧を自力で得ざるを得ない状況となり、それがかえって目標達成につながった。だが、全食糧を自力で得ることはとうてい無理であった。50点。

②水確保
水確保については、ろ過器やピューラックスが威力を発揮し、そのまま生活できるほどの量を確保できた。100点。

③やぶこぎで道を作る
けもの道を利用したため、あまりやぶこぎの機会はなかった。10点。

④地図作成
歩きながらの作成、また主観に頼らざるを得ない状況のため、いいかげんなものになってしまった。1点。

⑤天気図作成
天気予報ができるまでには至らなかった。50点。


ポイント5:CLからのメッセージ
 今回の合宿ではチーフに任命され、大変気を使ったが、結果的に成功に終わり、また新しい発見も無数にあり、とても喜ばしく思います。炎天下での焚火や、昼間も暗いジャングルへの水汲み、夕陽のきれいな珊瑚礁での魚釣りや満点の星空のもとでのミーティング、きっと皆様の青春の1ページを飾れたと思います。人間にとって本当に必要なものは、金や名誉ではなく、自由や平和や自然な生活であると言うことを体で理解しました。悪と虚栄のCrazyなアスファルトジャングルへ帰っても、この合宿で得た精神を忘れずに、アーバンサバイバルに望みたいと思います。

1989年 後期
好奇心を満たす!それが探検だ!
お台場合宿(12/9~10) 浜口俊
 東京湾の真ん中にうっそうとしたジャングルが広がる無人島がある。それがお台場である。もちろん、橋も渡し舟もない。我々は大変好奇心をそそられた。
 好奇心を満たす。それが我々の究極の目的である。「学術調査」などの言い訳を口にするのはやめろ。見たいものは何でも見、やりたことはなんでもする。これが探検だ。

 と言うわけで、次のアーバンサバイバルはこの「お台場」制覇に決まった。
 屋形船に見つかる可能性の少ない真夜中、お台場公園に到着。車で持ってきたゴムボートを膨らまし、準備が完了した。警備艇がサーチライトを照らしながら我々の真横を通過する。通過を確認すると、我々は「せーの」と言うかけ声と共に東京湾上をすべるようにスタートした。
 チカチカと点滅する信号灯を縫うように進む。ビルや東京タワーの夜景が美しかった。
 その時、一つの光点が近づいてきた。警備艇のサーチライトである。さっき通り過ぎたと思ったのに、こんなに頻繁に巡回しているとは。我々は信号塔の陰に隠れた。警備艇が通過すると、我々は急いで島に向かった。
 島は石垣に囲まれており、上陸が難しそうだったが、裏手に回ると崩れたところがあった。そこへボートを着け、上陸。ボートの空気を抜いてたたみ、鉄条網をくぐり抜ける。
 中は全くのジャングルで、獣道さえない。懐中電灯片手に、島の中心部へ到着。江戸時代の弾薬庫の跡が残っており、見上げると美しい星空が見えた。シュラフに入り一泊する。

 翌日の昼間は、船の航行が厳しく、また対岸の公園にもたくさんの人がいたので、我々は島の中でじっとしていた。
 再び夜になり、きらめくような夜景が広がった。凍えるような身体を丸めて、夜景に見入る。出発までにあと10時間あるので、島内探検をした。島内には化学薬品の臭いが充満していた。化学廃棄物を投棄しているのかと思われた。動物がいないのが不思議な光景であった。
 そうこうしているうちに10時間経ち、我々はボートのところに戻った。だが、ボートを膨らますうちに大変なことに気が付いた。空気が抜けているのである。上陸の時に強く擦ってしまったのだろうか。とにかく対岸まで500m、全力疾走で帰ることにした。幸いにも、空気の抜ける量は思ったほどではなく、追風もあったので、無事に着くことができた。
 到着は朝の5時。すでに辺りは薄明るくなっている。我々はより駐車場に近い浜辺へ回った。ウインドサーファー達に手を振りつつ、我々は堂々と上陸した。
 東京湾上のジャングルの無人島に上陸したのは、おそらく我々が初めてだろう。大成功であった。
究極のアーバンサバイバル
銀座・レゲエ合宿(12/16~19) 浜口俊
 我々はさまざまなことに挑戦してきた。
 この「地下道で浮浪者のように生活し、サバイバル、さらには浮浪者の生活を学ぶ」と言う今回の計画もその一つである。
 場所は銀座とした。これは、第一に高級料理店が多く食糧確保が楽なこと、第二に、地下道が発達しており寒さがしのぎ易いこと、第三に、池袋や渋谷に比べ知人に会う可能性が少ないためである。時期は食べ物が大量に消費され、食糧確保の絶好のチャンスとなるクリスマス前を狙った。
 下見や、大井埠頭での耐寒合宿を行った浜口が、他2名を引き連れ一路銀座へ。所持金は一人100円を残し、後は募金箱へ。ついにアー

バンサバイバルの究極、レゲエ合宿が始まった。
 銀座の地下道に着くと、まず抵抗があったのが、地下道の床に座ることであった。人通りも多くジロジロ見られそうだったが、ついに意を決して床の上にゴロンと寝てみた。一度やってしまえば意外と平気になってしまい、最初は裏道だったのが、いつの間にか通りの真ん中でできるようになっていた。ゴロゴロしていても意外にジロジロ見る人もいなく、心地よくなってきた。床に寝そべって大通りを見ると、早歩きする人の足や手下げ袋ばかりが見え、さらにその向こう岸には、我々と同じような地下原住民達が、新聞紙の上に酒を広げて宴会をしているのが見えた。さっそくすり寄るように彼らの方へ近づいていった。話を聞き耳を立てて聞いていると下ネタばかりであった。
 夜になり、いよいよ食料確保が始まった。ゴミ箱をあさるのは、初めは人目を気にし抵抗があったが、慣れてくると面白ささえ感じられた。ゴミ箱のふたを開けると、そこには色々なものがあるが、スペシャリストの原住民達はグチャグチャのゲロのような残飯を素手でつかみ食べてしまう。さすがにこれには驚いた。またこれはいきなりは真似できないと思った。我々はまずきれいなゴミを拾い、落ちていた紙袋の中に詰めた。食べかけの弁当や古くなったチーズ、ふやけたせんべい、また深夜になるとファーストフードの店の裏手のゴミ捨て場に、冷たくなったハンバーガーやポテトなどがそのまま捨てられていた。我々は他の浮浪者に混ざってゴミ箱の山に登り、これらの物を拾った。酒も高級レストランの裏手などに捨ててある空きびんを拾い、そこに溜まった残り酒を一つのびんに集めた。
 夜12時近くなると地下道は閉鎖される。外に追い出された我々は、他の人々がどの様にしてこの寒い夜を過ごしているのか観察した。皆ダンボールをうまく継ぎ合わせて家にし、またその中に新聞紙や布を敷き詰め寒さをしのいでいた。また、夜通し歩き回っている者もいたが、なぜかそのような者は、知人も友人もなく、一人言を言っているものが多かった。この様な人は精神病的な危険な雰囲気をかもし出していた。彼らは自分以外の人間を完全に拒絶していた。どうしてこの様な生活をしているものに精神病者が多いのか。この様な生活をしているとおかしくなってしまうのか、それともおかしい人間なので社会から追放されてこの様になってしまったのか、疑問として残った。
 我々は日比谷公園に行き、チーズやサラミ、酒などの食糧を広げた。それらを食べ終わると再び銀座の町へ戻った。一つだけ開放している地下道があったので、そこに拾ってきたダンボールを敷き、寝た。
 早朝、我々は暖房の効いている地下道に戻ったが、駅員が寝ている我々を起こしに来た。「おじさん悪いけど出て行ってくれ」などと言われたのでダンボールを持って外へ出た。
 昼間は日比谷公園のベンチで昼寝をしたが、寝心地が悪くほとんど寝られず、日溜りの中でボーッとしていた。やることもなくボーッと過ごすのは大変苦痛である。我々は悟った。「こんな生活が毎日続いたら気が狂う」と。
 計2泊3日の生活で、身も心も疲れ果てボロボロになった。しかし、この飽食の国日本では、金がなくても十分に生きていけると言うことを学んだ。

1990年 春休み
世界最深の洞窟発見なるか?
イリアンジャヤ洞窟探査の記(2/11~3/17) 吉井靖人
 ニューギニア島の西半分、インドネシア領「イリアン・ジャヤ」――。人類最後の秘境の一つである。
 これまでに幾つかの探検隊が民族調査を目的としてイリアンジャヤに入域している。しかし、この地域において洞窟の調査が行われたことがあるという資料は全くと言っていいほどなかった。しかもイリアンジャヤは石灰岩の地層が厚く、特に中央稜線付近の3000m地帯では5000m級の山々の雪解け水が巨大なシンクホールに吸い込まれて世界最深の洞窟を形成している可能性が非常に高い。
 ところで洞窟探検というと水曜スペシャルの川口浩隊長を思い出す人が多いだろう。だが、実際の洞窟探検は地道であり、また危険も多い。探検部のなかにさえ洞窟が嫌いな人はたくさんいる。というのは全身泥だらけになるのが当り前であり、洞窟内の水流を歩伏前進で突破しなければ行けないときもある。洞内は光が全くないから、懐中電灯の電池が切れたら一巻の終わりだ。もっとも危険なのは洞窟が井戸みたいに竪に伸びている場合、ロープ1本で登り降りしなければならないことだ。もちろん、ロープが切れてしまったときはバラバラ死体になってしまうという悲惨な運命が待っている。また、パプアニューギニアで洞窟内の水流で溺れて死んだ人もいる。しかし、そのような危険があってもやはり洞窟は探検家にとって魅力的なのだ。科学、交通の発達した現代において地理上の探検はほとんどし尽くされた。もはや、探検家にとって残された未知なるもの、人跡未踏の地は海底・地底・宇宙しかない。そのなかでアマチュア探検家ができることといえば地底探検ぐらいだろう。海底と宇宙は国家規模の事業でしかできない。その点、洞窟探検はそれほどの金を必要とせず、要るものといえば100mの高さがなんだという思いきりの良さ(あきらめとも言える)と、2・3日間ぐらい洞窟の中で生活しても平気であるという無神経さぐらいかな。

 今回の探検は早稲田大学探検部から8人、学習院から3人、東京農業大から3人、東京電気大と大阪芸術大と立教から各1名の合計17名の混成隊であった。そして、そのうちの1人は川下り、3人は民族調査、あとの13名は洞窟探検というように活動内容も多様であり、さらに洞窟探検班も洞窟調査班と洞窟探査班の2つに分けた。洞窟探検の目的はあくまでも世界最深であり、地上よりもっとも深い場所に降り立つことだ。誰も見たことがない闇の中へ降りて行くことはとても神秘的だ。それに魅せられてCaver(洞窟探検家)はより深い洞窟を目指すのである。
 調査地域はイリアンジャヤ州ワメナに近いイルグア部落にある竪穴群の調査・測量と、トリコラ山・ハベマ湖付近の石灰岩地帯(高度3000m)における洞窟の探査である。洞窟探検班の13名のうち、8名はイギリス隊がその存在を報告しているイルグア地域竪穴の調査することになり、5名はハベマ湖地域で探すことになった。2つに分けた理由は、11月のミーティングで'88の夏にイギリス隊が既に調査をしていたことがわかり、彼らが調査していない地域を調査したいという意見が強かったためだ。その候補地としてハベマ湖・トリコラ山地域があげられた。だが、この地域は村がなく、また行程がハードであり全員で行動するのは困難であることが予想されたため、5人の有志で偵察をすることにしたのだ。有志とはいっても結局じゃんけんで決めたのだけれど。

 2月10日に成田を発って、2月11日にインドネシアの首都ジャカルタに到着した。ここでイリアンジャヤの入域許可証をとる必要があった。イリアンジャヤは第2次世界大戦後オランダによる植民地化から解放されたが、今度はインドネシアが武力で併合したために現在でも独立闘争がこの地でくりかえされてい
るのだ。そのため、外国人がイリアンジャヤに入るには入域許可証が必要とされていた。入域許可証を取り次第、すぐにでもイリアンジャヤに出発したかったのだが、日本大使館で大使館職員が我々の計画に反対したため入域許可証がなかなかおりなかった。そのおかげで1週間もジャカルタで足止めをくらい、また入域期間も1カ月に制限されることとなった。だが、ここまできてイリアンジャヤに行けなくなるよりはましに違いなかった。
 イリアンジャヤの州都ジャヤプラに着いたのが2月18日。翌日そこから中央高地のワメナへ行く予定だったが、次の日にワメナ行きの飛行機は来なかった。いつ飛行機が来るのか空港職員でさえ予想がつかないきまぐれなシステムに日本とは違うことを痛感させられる。運よくその翌日にはワメナ行きの飛行機がやってきた。いつ落ちてもおかしくはないくらいがたがきている飛行機に乗って1時間ほどするとワメナに着いた。飛行機の窓からペニスケースをつけたダニ族のおじさんが滑走路をてくてく歩いているのが見えて、「ああ、やっと来たんだな。」という実感が涌いた。
 ワメナで現地警察の渉外、ポーターの手配、食糧の調達を済ませて、さっそく各々のグループは目指すところへと出発した。私はじゃんけんで勝ってしまったのでハベマ湖へ向かった。

 ハベマ湖への道のりは容易なものではなかった。ハベマ湖地帯は標高3000m、ニューギニア島を縦断する中央稜線付近の石灰岩地帯である。そこまで行くのは山道を登らなければならなず、登山するようなものだ。しかも、300mくらい登ったかと思うと先は200mの下り道になっている。ワメナ近辺に住んでいる人々はダニ族と呼ばれているが、彼らに限らずイリアンジャヤ高地人は道をつくるのがどうも下手みたいだ。尾根の方に登る道はどんな急斜面でも必ず直登のルートである。
 この先はもう村がなくなるというところでダニ族の家に泊めさせてもらった。彼らの家は男の住む家と女の住む家に分かれており、我々一行は男の家に招待された。家は2.5mくらいの高さでお椀をひっくり返したような形をしている。外見ではわからないが2階建てで、1階の囲炉裏で焚火をすると屋内は比較的暖かくなる。2階にあがると汗がじっとりとにじむほど暑い。夜になれば10℃以下に下がることも珍しくない高地で人々が裸に近い格好で暮らせるのもその家の構造のおかげだろう。しかし、蚤が多いのには困った。2、3日して鏡で背中を見てみると背中全体が蚤にやられていた。
 その村を後にすると道はジャングルのなかへと続いていた。突然、スコールがやってきて我々を苦しめたあと、今度はぬかるみになった山道が我々を苦しめた。森のなかで1泊して森を抜けると、目の前に草原が広がっていた。足を踏み出すと足首までずぶずぶと沈んでしまう。草原ではなくて湿原だった。大地は苔や藻のようなもので覆われていて、所々に木生シダが生えている。恐竜だけがいない太古の世界に迷い込んだような気分だった。「後は恐竜を探すだけだな。」と言う奴もいた。

 ハベマ湖に着いたことは着いたのだが、湿原地帯に洞窟があるわけはない。さらに奥に進むとデンダギ湖と呼ばれる湖があった。地図を見るとこの湖はどの川にも流れ込んでいるようではない。考えられるとすればこの湖の水は近くにあるシンクホールに流れ込み、大地の奥深へ消えていくに違いない。そして、大規模な地か水流を形成しているはずだ。湖の周りを調べてみるとシンクホールはあったのだが、落盤で埋まっていて人が入れるようなものではなかった。気を取りなおしてデンダギ湖付近を調査してみたが、2~30mで終っている穴が多く我々を失望させるだけだった。
 それでも、さらに奥に進めばきっとあるに違いないという楽観的観測から我々は中央稜線の近くまで進んだ。なるほど、行く先々には石灰岩の岩壁が見られた。ただ、奥に進むにつれ、標高は上がり気温も低くなっていった。ロゴロックと呼ばれる地域を目指し、そこのベースキャンプにちょうど着いた途端、大豆ほどのひょうがバラバラと降り始めた。ニューギニア島に来てまでひょうに降られるとは。その日から日中気温は8℃前後までしか上がらず、呆然とする日々を過ごした。
 それでも気温が低かろうがひょうが降ってこようが飽きもせず洞窟を探しまわらねばならない。我々の調査方法といえばただ歩き回ることだけだ。非能率なようだが探検という行為そのものも山師みたいなものだ。執念と努力が幸運をもたらすのだ。沢を登り尾根を越えジャングルにわけ入り身体中傷だらけになりながら洞窟を探した。だが、その努力も空しかった。穴もあるにはあるのだが、土砂の流入が激しく2~30mで詰まった穴ばかりだった。また、石灰岩自体の質も悪く、我々が下した結論はつぎのようなことだった。世界最深の洞窟がこの大地の奥深くに眠っている可能性は多いに有り得る。ただ、それが地表と通じるようになるまでには数千年はかかるだろう。つまり我々がこの地に来るのが2000年ほど早すぎたのだ、と。

 しかし、イリアンジャヤは広い。たまたま、この地域が駄目だったからといって、他を探せばいいことじゃあないかと別の場所に移動することになった。ただ、その前に目の前にそびえる4000m以上はあるだろうという中央稜線のなかでも際立って高い山についでだから登っちゃおうということになった。なにがついでだかよくわからないが、ガイド氏によるとその山は処女峰らしい。探検部はなんでも1番目が大好きなので、処女峰に目がない。洞窟を探しに来たという目的もそっちのけで、多少の危険を犯しても登るつもりだった。
 12時になると雨が降ってきてガスが発生し、完全にホワイトアウトしてしまう。しかも、毎日の探索で疲労もでてきている。処女峰だからルートもない。その山に行くには湿原地帯をつっきらねばならない。そのような悪条件でも処女峰は魅力だった。私はそれほど乗り気でなかったけど。
 まだ、暗いうちにベースキャンプを出発して、最初の難関である腰近くまで沈む湿原地帯を渡りきった。この湿原地帯のなかに巨大なシンクホールを見つけたのだが、とにかく処女峰登頂が全てにおいて優先されていた。薮をかきわけ、転んだら血だるまになりそうな岩の上をおそるおそる歩いているとピークが見えた。高度障害に少し喘ぎながらピーク(正確な数字はわからないが3900m以上)に登ると、壮観な眺めが我々を待っていた。その山の南に長々と横たわっている山の上に2つの湖があって、その2つの湖から流れた水はその山の側面を何本もの滝となって落ちているのだ。(詳しいことは岳人掲載予定)
 我々は処女峰を後にすると、湿原地帯で見つけたシンクホールの調査にかかった。なんとそのシンクホールは前述の山上湖から流れて来る川を一気に吸い込んでいた。しかも湿原中の水を集めてシンクホールに流れ込む水量は恐ろしく多かった。これほどの水が流れ込んでいるならば、地下に大規模な洞窟を形成しているに違いない。しかし、その流れに巻き込まれでもしたら2度と浮かび上がれないことも事実だった。その穴はとても魅力的だったが、命も惜しいので我々はそれを諦めて立ち去った。

 最低気温4℃にも負けず、洞窟探しはまた始まった。今度はガイド氏が確実にあるというところを案内してくれた。だが、不吉なことにその洞窟に一行が近付くにつれダニ族の連中の表情が固くなっていった。彼らの心のう
ちを知る由もない我々は目の前に現れた洞窟に狂喜した。「これはなかなかでかい。」驚きの声が上がる。その洞窟の洞口からは滝となって水が吹き出し、その水は川となって流れている。隊員の期待に満ちた顔とはよそにダニ族の連中はその洞窟を恐れていた。
 突然、ガイド氏が帰ろうと言い出した。ここにいるのは危ないと言うのだ。この洞窟には人喰いお化けが住んでいて近付く者を誘い込んで喰ってしまうらしい。4年前にイギリス人旅行者が誘い込まれて喰われてしまった。その骨はワメナ警察に現在保管されていると、真に迫った顔で言う。ガイド氏は大学出で数カ国語話せるほど学識はあり、決して迷信深くはないはずだ。その彼が真顔でぽつりぽつりと語るその姿に我々は迷信だと笑い飛ばせないものがあった。こうして我々が無事にここに着くことができたのもダニ族のなかに呪術師である者がついてきてくれたおかげだという。しかし、人喰いお化けが腹をすかせると我々も危険だということで立ち去ることにした。帰り際、呪術師の能力を持つダニ族の若者が100Rp硬貨を洞窟に向かって投げた。こうして人喰いお化けを鎮めるそうだ。 またしても洞窟にはいれなかった。この後、ワメナへ戻るときにも洞窟を案内してもらったのだが、村の長老の反対にあって入ることができなかった。イリアンジャヤ高地の人々にとって洞窟は信仰の対象であるのだ。それは部落間戦争での避難所でもあり、食人を行った際の埋葬所でもあった。彼らの洞窟に対する思い入れは我々が予想していたよりも深かった。同時に人間と洞窟の太古からの結び付きがそこにあった。人間は原始以来、洞窟が持つ闇に魅かれていたのだ。

 我々5人の探査はこれで終るが、イルグア竪穴群調査班のほうは素晴らしい成果を収めたようだ。彼らには東京新聞の蒲記者が同行したので、彼らの成果も日本の新聞で取り上げられることになるだろう。深度約270mの洞窟を探検し、その洞窟はインドネシアで2番目に深いものだという。

 今回の探検で我々が目指した世界最深の洞窟の発見には至らなかったものの、調査は1回では終らないものだ。根気と執念によっていつかはこの地で世界最深の洞窟が見つかるだろう。いや、洞窟だけではない。世界最後の、もはや失われつつある石器文化とあの人を寄せ付けないジャングルは探検家を魅惑し続けるだろう。あと数年間くらいは。

1990年 前期
私が言うんだから絶対なのに……
カッパ島合宿(4/28~29) ノリピー
 私ノリピー。今から私が書く話はみんなホントよ。だってアタシが言うんだから絶対なのよ。

 そう、あれは新歓で行った「カッパ島」。……いろんな事情があって場所は明かせないけど、その小さな島を囲む底無し沼に着いた途端、私はいい知れぬ危険な雰囲気を感じたわ。オンナの直感ってやつかしら(なあんちゃって)。
 でも、その直感を裏付ける様なことが次々起こったわ。行木さんのカヌーが何の脈絡もなくひっくり返ったり、私たちの乗ったブラックタイガーが漕いでも漕いでも進まなかったり……そう言えば、私と一緒に入部した、確かトリとかツルヲとか言ったかしら、あの男子達、怪しいニオイがしたわ、うん。
 で、着いた所は、カッパ沼の汚物が吹き寄せられてできたような、ふにゃふにゃのほんとに小さな島。夜になっても、小蝿と羽虫の飛び回るこの悪臭の中じゃ、アタシとても眠れなかった。
 その時だったわ、テントの外で妙な物音がしたのよ。アタシほんとにブルっちゃった。でも、小刀「肥後之神」を握りしめてるうちに、私には不思議な勇気が湧いて来た。そっとテントを出て、葦の茂みの中へ入ってみたの。
 そこにはお相撲で使う土俵……堀を巡らして、屋根までついてる立派な、でもずいぶん古ぼけた土俵があったの。……何でこんな所に? 疑問に思った私がヘッ電を向けた先には……何がいたと思う? そう、カッパよ!
 私が叫ぶのとその生き物が襲いかかって来るのはほぼ同時だった。私とカッパとの戦いは2時間に及んだけれども、所詮「肥後之神」は鉛筆削り、最後にはカッパのきついケリを側頭部にくらって、アタシはその場に崩れ落ちた。
 翌朝、血まみれで発見された私は、目の前……ちょうど昨晩カッパがしゃがみ込んでいた所に、真新しい山盛りのふんを見たの。うさぎのふんに似てたけど、でも直径30mもない小さな島に、そんなものいるはずないわ。ふんの写真もちゃんとあるのよ。
 でも、いくら「私が言うんだから、絶対にこれはカッパのふんよ!」と主張しても、探検部の人達は誰も信じてくれなかった。それでアタシは探検部をやめたってわけ。
軍神降臨! 探検部は新たな局面に突入した!
御嶽激流下り合宿(5/2~4) C・レヴィ=ストロース
<軍神>に関する覚書
 「軍神 God on the battlefield」とは、合宿、あるいはコンパ時に於ける「宴 Utage」が最高潮に達した頃、突如として降臨する異形の神である。
 大抵の軍神は「通常型」にカテゴライズされるが、時に硬く膨らんだ物、あるいは「カントン型」と呼ばれる物が発現することがあり、これらは特に現地人の畏怖感情の中心をなすものと思われる。
      ……(略)……
 これらの諸点を構造主義的に解釈すると、以下の如き「軍神の三角形」の存在が指摘できよう。

    軍神の三角形
      通 常 ……  ハレ
              ↑
              ↓
ふくらんだもの カントン型 ケガレ
    怒り←―→悲しみ

 現場に居合わせたインフォーマントによれば、軍神は何かを警告するために降臨するらしいが、何を伝えたいのかについてはよく分からないと言う。
 ただ、降臨に際して必ず「トリ」と呼ばれるシャーマンが関与していることだけは明らかになっており(写真参照)、今の所これが軍神解明への唯一の手がかりであると言えよう。
軍神写真が盗まれました。個人での使用は厳禁したというのにいったい誰が家に持って帰ったのだろう。
いま明かされる真相! 悪いのは誰だ!
リバベン不参加事件顛末(6/9) 行木敬
 何度も繰り返してきたように、この年リバベンに出なかったのは、私の責任において以下の様な判断をしたためである。

①カッパ沼で新歓も兼ねての実験の結果、旧ボートの空気漏れのひどさは、とても激流で形を保てるものではないと判断したため。

②かと言って、新しくボートを買うだけの金もないため。

③4年生が一気に抜けたこの年、水上で死なないだけの実力を再びつけるためには、長期の水上プレ合宿を組む必要があるが、それを行う時間が取れなかったため。


 誰が悪いのかと言われれば、それは私以外にいない。確かにこれらの判断は消極的解決であり、このまま放置するのなら「誕生日に重なるからやめたんだろう」等と妙な疑いをかけられるのも無理はなかろう。従って私には、新たな積極的解決案を示す義務が課せられるのである。
 積極的解決案、すなわち、ボートは必ず買う。だが、リバベン参加にこだわってブラックタイガーを買うよりも、より機動力が高く、行動範囲を広げることのできるカヌー型のゴムボートを買おうと言う案を、私は持つ。
 ただ、外国製の物しかなく高い(33万)、3人ぐらいしか乗れないなどの欠点、そして永久にリバベンには出られないと言う、後の部運営に大きく関わる問題点があるため、私個人で安易に結論することはできない。今後議論を重ねていきたい。
 なお、とりあえず旧ボートは修理に出しているが、今年のリバベンには間に合いそうにない。OBの皆様、もうしわけありません。
不安、迷い、そして感動……ああ、洞窟はスバらしい!
小袖洞窟合宿(6/16~17) 山口ツルヲ
 オレの入学後、3度目の合宿となったこの合宿は、偉大なる軍神宇田川さんに連れていってもらったものである。
 初めて入るものにとって、7-1洞はせまいし、暗いし、寒いので、入っている3時間は異様に長く感じた。しかも、まよって本道を探している間は生まれて初めての不安で、快感さえ感じられた。
 しかし、出口を見た時は100m×100mのガラスを割った時のような感動が生まれ、本当によかった。
 また来年も来たいなあ。
ハル春山の丹沢賛歌
丹沢沢登り合宿(6/23~24) 春山秀仁
沢に登ればアッハッハ
 コケのハングにしがみつけ
  ちょっと危険なトラバース
   三点支持を忘れるな

ホールド見つけてウッフッフ
 宇田川さんここ行けますよ
  アタックするからついて来て
   浮き石蹴って「落注意」


この頃、リラさん帰国。暖かい涙が彼をむかえた。「何よりのぜいたくだよ」リラ談
体育会本部襲撃事件発生。季節の変わり目には理由のない殺意にかられるという1年生ハルヤマ、ある昼下がりに日本刀(なぜか昔から部室にあるもの)を抜くと、ギラ付く刃を部室の壁の穴に押し当て、そのまま根元まで力任せにねじ込んでしまった。壁の裏の体育会本部より「うぎゃあ痛ってえ!」「なんじゃあこりゃあ!」の悲鳴・怒号。だがその時すでに我々は、部室から全力疾走で逃げ去る最中であった。なんとかことなきを得たものの、恐ろしくて部室に近づけない日々が続いた。が、やがて意を決して部室の様子を見に行くと、室内には人間ワザとは思えぬ力でめちゃくちゃに曲げられた日本刀が叩き込まれていたのだった。
ワカメ事件発生。西池公園の噴水にデルタ型のワカメが漂う。女性にも軍神が宿ることを知る。
一年生団結事件発生。いまひとつ仲がいいのか悪いのか分からない一年生たちに不安を覚える上級生であったが、密かにバンドを結成、どこかの女子大の文化祭に参加していたことが判明。団結したのはよいが、写真に残るトリの真っ白なシャツに、また別の意味の不安を覚える我々であった

1990年 夏休み
ボブ・ディランは泣いていた……
長良川川下り合宿(7/26~8/2) 行木敬
7/26
お昼 込谷、鈴木、行木、春山、部室集合。
18:35 部室出発。カッパ沼の汚水に浸かって以来、広げて乾かされるどころか、手を触れることも、話題にすることすらも避けられてきたブラックタイガーは、信じられないほど臭く、重く、汚い。「これから一週間、オマエがこれを背負うのだ」 そう宣告された時の一年生春山のうつろな目が印象的だった。
19:00 東京駅で大垣行きの電車を待つ。我々の列の後ろにはなんと「JB」が並んでおり、その非常識な行動に一同熱いソウルを注入される。また関口、坂田の両名が励ましに駆けつけてくれるという、うれしい一幕もあった(が、合宿への参加は断固として拒否していた)。23:45 大垣行き出発。

7/27
6:42 岐阜駅着。 9:00 長良川鉄道州原駅着。
10:30 行木、郡上八幡~州原間の川の下見に出発。何より目についたのは「釣りうど」達の異常な多さ。また、その間テン場に残った3人は、ナスを売りつけられるなど、原住民の敵意ある行動にさらされる。
夜、ラジを持ってくるはずの宇田川さんが、約束の時間になっても現れない。しかたなく生のナスをかじって飢えをしのぐ我々。次々に我々に襲いかかる不安感は、この時ピークを向かえる。

7/28
目が覚めると宇田川さんがいつの間にかテン場で寝ていた。夜を徹して歩いてきた様子。途中、大きなカブトムシを見つけたことなどを熱っぽく語ってくれた。
一時はくじけそうになった我々だが、宇田川さんの熱い説得により予定通り下ることに決定。
12:00 郡上八幡に向け出発。
14:00 郡上八幡より航下開始。宇田川、込谷、鈴木、春山はゴムボート、行木はファルトに分乗。水量は思ったよりあり、また水も非常にきれいで、これは良い川。ただし、予想通り釣り人の数が異常に多い。それも胸まで川に浸かって釣っているようなマニアばかりだった。こちらの「すいません」の声にもかかわらず、ヤツらは敵意をムキ出しにしてくる。たまりかねたボートの4人、釣り人を、ブラックタイガーの巨体で故意に押しつぶす。
ファルトに乗っていた私は、流れの中心に垂れてる釣り糸を避けるため岩の脇をコースに選んだのだが、その甲斐もあって、数百mおきに岩に張り付く→沈→激流に飲まれる、を繰り返してしまい、身も心もファルトもボロボロになった。仕方なく「勇気ある撤退」をし、電車でテン場へ戻ってしまった。18:00着。
一方、ボートの方も日が暮れてしまったためぼちぼちと撤収、19:30テン場着。
あまりの釣り人の多さに呆れた我々は、明日はもう少し釣り人の少ないところからスタートすることに決め、二駅下流の美濃市駅へ移動した。着は21:30。とりあえず今夜はここで寝る。

7/29
しかし、美濃市駅は川から余りに遠いため、再び一駅上流の湯の洞温泉駅へ移動。6:40着。
8:38 航下開始。昨日の状況とあまり変わっていない様な気がする。
お昼、鮎の瀬橋手前の川原で休憩中、タンパク質の欠乏にあえいでいた込谷先輩が、近くでバーベキューをしていたオヤジ達と打ち解け、食べ物を分けて貰う。その中にいた野田知佑の友達とか言うヤツが、我々の計画書に「野田知佑追悼」の文字を見つけ、「いいかげんなコト書くな」と怒る。鈴木先輩はああいったオヤジが嫌いらしく、ボートの中で終始寝たふり。
16:45 藍川橋着。今日のテン場。割と不便。

7/30
9:30 航下開始。
11:30 今帰らないとバイトに間に合わないと言う宇田川さんのために、交通の便のよい長良川橋下に上陸。コンビニもトイレもあり、とても良いテン場の上、午後からは逆風が吹いてボートを進められないと言う事情もあり、ここを本日のテン場とする。
午後、すでに帰ったはずの宇田川さんの荷物が公園に放置されているのを発見。夕方までそのままだった。その間宇田川さんはどこで何をしていたのだろう。あの人の行動にはいつも理解の難しいところがある。
夜、夕食中の我々の目前に、突如50隻以上もの屋形船が上陸。と同時に、あっちの船からもこっちの船からも酔っぱらったオヤジどもがヨロヨロとはい出てきて、立ちションをして引き上げていった。

7/31
8:30 航下開始。流れが悪いので煙幕など焚いて景気をつけた。数日前から、込谷先輩の「朝タンパク質を取ると筋肉が付く」と言う意見を取り入れトウフなど食べていたのだが、この日のトウフは完全に腐っていた。春山が食べる。
炎天下、川はだんだんのろく臭くなり、ボートの浸水もひどい。加えて、ラジカセからたれ流されるレゲエが、我々の気力を完全に奪いさった。
13:00 羽島大橋着。ハエだらけの岸辺にやっとの思いでボートを引き上げる。鈴木先輩は日焼けで顔がシワシワになっているし、込谷先輩のクチビルは蚊に刺されて腫れ上がっているし、春山は川面に漂う魚の死骸など見つめながら、ぼうぜんとタバコをふかしている。ボートの浸水、残りの日数も考え合わせ、我々はここで川下りを終了することに決定した。

8/1
12:30 引き上げ開始。ボート、パドルは宅急便で送る。ついでに高浦教授の元へも「活きアユ」を送る。ホントに生きて届くんですかと尋ねると「いえ、2分で死にます」とのこと。
14:30 岐阜駅着。駅のファーストフード店でボブ・ディランのビデオを観ていた春山がポツリとつぶやく。「ボブ・ディランは泣いていたんですよね……」。その言葉に隠されたこの合宿への非難は、我々の胸を深くえぐった。その後みんなでフロ屋に行った。女湯の方で「洗濯はしないで下さい」と注意された人がいた。
夜、帰る春山を見送る。その背中はまるで南部へ向かうボブ・ディランの様だった。残った我々は近くの公園で一夜を明かす。

8/2
目覚めるとそこはラジオ体操の会場のド真ん中だった。
7:30 次の小豊島合宿の集合場所、大垣駅へ移動。
考古学界に衝撃! 聖太子の石棺発見!
小豊島おでしま遺跡調査合宿(8/2~9) 行木敬
8/2
8:30 長良川から続けて来た込谷、鈴木、行木と、昨夜東京を出た関口、坂田、ツルヲの計6人が大垣駅で合流。すでに身も心もボロボロになっていた長良川隊は、アロハなど着てすっかりリゾート気分のツルヲを見て、言い知れぬ怒りを覚える。
16:00 岡山駅着。 17:00 フェリー出発。 18:00 小豆島トマソン港着。 19:30 旧日本兵と思われるおやじの紹介で、終夜開いている港の待合室をテン場に定める。
20:00 となりの公園で夕食を作り食べる。島じゅうのヤンキーがこの公園に集まり、盛んに花火やナンパをしていた。

8/3
小豊島おでしまに行くには一度豊島てしまに渡らなければダメだ、と言う観光案内所のオヤジのデタラメな話をうのみにして、豊島に渡ることにする(本当は、我々のテン場の真正面から一日二回小船が出ていた)。船の出る夕方までは思い思いに過ごす。泣いていた者もいた。
19:10 豊島に渡る。夕食。鈴木先輩作の激辛のバリ料理。
食後、大貧民に興じる。おそらくトランプにイカサマがあったのだろう、私がひとりで連敗する。罰ゲームとして不気味な廃工場にひとりで肝試しに入ることに。恐くはなかったが、外で待つ部員たちがオバケに襲われているといけないので途中で引き返す。CLとしての責任をまっとうした私に、「弱虫」という心ない非難を浴びせるものがいたが、本当に弱いのは、さて誰だろう?

8/4

14:00 小豊島に向かって出発。すぐに着。島民30人。店なし。
着くなり、3年生達が貴重なウーロン茶を危険な角度で飲み干す。ツルヲが岩についていた生ガキにむしゃぶりつく。「うまいっすよ」 びっくりすることばかりだ。
不健康にむくんだ男がテン場にくる。口数が少なく詳しいことは分からないが、友達になりたいらしい。スイカを持ってきてくれた。「玉田」と命名。

8/5
みんなたまってきたのか、人目に着かない岩場に消え、上気した顔で戻って来るものが増えてくる。しかしツルヲだけは私の目の前で激しくボッキし、「あーん、先輩しこってえー」と大股開きになる。仕方なく木の枝でさすってやった。よがり声と共に果てる。
夕食中、関口先輩が、突然男根に焼け付くような痛みを覚えてのたうちまわる。日頃の不摂生がたたったのだろう。再び泣く。「もぎれるような痛みだったよ」とは関口クンの話。
夜、魚を釣りに行く。玉田とまた会う。いろいろと身の上話を聞いた。また、石棺については、我々の事前研究を裏付けるような伝説を話してくれた。

8/6
7:40 鈴木、坂田が小豆島まで買い出しに行く。その間、残った男で山中に分け入る。けわしい密林を日頃培ったやぶこぎ技術で抜けて行くと、偶然石棺を発見した。半ば土に埋もれていたが、大きさは3m×1m×50㎝くらい。中には白骨があるようだったが、蓋が開かず確かめられなかった。副葬品がなかったので断定はできないが、関口先輩によれば、これは古墳時代前期、聖徳太子の乳兄弟に当たる「聖太子」の石棺だろうとのこと。いずれ日本の考古学界をゆるがす新発見となることだろう。
14:00 込谷先輩が「やむを得ぬ事情」を強く主張し、一足先に帰ることになった。別れの港で熱い握手を交わした時は、さすがに残された者の胸もジーンとなったが、船が岸を離れると、さも幸せそうにニヤッと笑ってこちらを振り向いた。あぜんとする我々。
夜中、1年のくせにツルヲが寝てしまったので、ウーロン茶を口に注ぎ込んでやる。赤ちゃんのように寝ながらウグウグと飲む様子がかわいらしかったが、突如逆噴射、大変な被害をこうむる。また、眠気のため異常にハイになった鈴木先輩の「イヤな言葉探し」につき合わされフラフラに。

8/7
7:40 鈴木、坂田が帰る。
腹が減ったが油と生米しか材料がない。「それなら油めしを作りましょう」と、ツルヲが考えの浅い解決策を呈示。いいだしっぺのツルヲに作らせるが、さすがに炎天下での調理は嫌がる。そこで「ラジを777回ポンピングするとエメラルド色の炎が出る」というその場で考えた極秘情報を教えてあげたところ、案の定ツルヲは喜んでポンピングに励み出した。だがちょうど666回ポンピングしたところで、なんとラジが爆発。島を焼き尽くす大惨事に発展した。後日ツルヲが語ったところによれば、破裂したラジから飛び出した火の玉が目の前でぱっくり二つに割れ、その中に憤怒の形相に燃えた小さな人影があったという。おそらく墓を暴かれた聖太子であろう。
14:00 小豆島に戻る。関口、行木、ツルヲの三人は民宿「ふくや」にその日の宿をとる。しかしこの民宿はアットホームを売り物にしており、客はすでに全員縁側に出て極めて無礼構な宴会を開いていた。当然我々もそれに強制参加させられる運びとなり、うんざりしていたのだが、私がフロから出ると、ツルヲが「冬のリヴェラ」をカラオケで歌って、なんと宴の中心になっていた。我々がイヤなヨット親父にからまれている一方で、ツルヲはますます生き生きとし、「おばちゃん」のムスコになったり、バイトの女の子と親密になったりしている。もう何も言うまい。我々はただ、この地獄の様な一夜が早く終わることだけを願った。

8/8
早朝、関口、ツルヲは、私の体に性的いたずらを行った後、東京へ帰った。私は、次のビート板合宿に向け、マリスト先輩との合流場所である四国の今治へと出発した。
それは神への挑戦か? 見よ!あの荒れ狂う海を!
瀬戸内海ビート板横断計画(8/10~14) 行木敬
 偉大なる勝利者は、それ故に、また大いなる敗北に屈さねばならない時もある……。
 我々、吉井と行木はこの夏、ビート板による瀬戸内海横断を試み、そして――敗北した。

 計画の発端は、バイト先の大学教授に教えてもらった極秘情報である。なんでも瀬戸内海には、島ひとつが丸ごと女子大になっているところがあるという。島には女子学生の暮らす寮やショッピング街、免許センターまであるらしい。
 かかる閉鎖的環境の中で、ムッチムチの女子大生たちが性的に飢え切った状態でいることは、中学生男子にでも容易に想像がつく。その島にもし侵入することができたなら、そこにはいかなる性の饗宴が待ち受けていることだろう。まだ見ぬエロチック大陸を目指す我々の挑戦は、こうしてはじまった。
 当然ながら一般の渡船はその島には出ていない。だが我々は探検部である。海を渡る手段ならいくつだって持ち合わせているのである。中でも今回我々が選んだのは、ビート板という、もっとも過酷な手段であった。

 計画は完璧だった。因島海域は、島を隔てる海峡の狭さによって、唯一人間が泳ぎ切れる可能性を秘めているフィールドである。むろんその狭さは、逆にいえば潮流が複雑に、かつ高速度で流れ抜けて行く、極めて危険なフィールドであることも意味している。だが、今回の計画のために、前年度、行木は瀬戸内海カヌー単独行を行なっている。瀬戸内の潮流はすでに見切った。潮流の止まる数十分間に泳ぎ切れれば勝算はある――! そう判断した我々は、前を膨らましながら荷物をビート板に括りつけ、前を膨らましながら海に飛び込み、前を膨ましながら力強いバタ足を始めたのであった。

 だが、前を膨ませ過ぎたため、水の抵抗が著しく増大し、いくら泳いでも前に進まなくなってしまったことは、我々の計画にとっての唯一の誤算であった。
 そのうち潮が動き始める。文字通り死ぬ気でバタ足を続けた我々であったが、すでに潮の流れは、これが海かと思うほどに強烈なものになっていた。ごうごうと渦巻く海面を、あたかも「蒼ざめた馬」に導かれるかのように流されていく我々。気がつけば、周囲に島影ひとつ見えない大海原のド真ん中である。もはやどちらに向かって泳げばいいのかすら分からない。
 ――死ぬのか? こんなことで? 波間に漂う我々の頭上、真夏の正中点に、太陽がゆっくりとさしかかる。体力の消耗とともに、恐怖の感情すら枯れ果ててしまったのだろうか、海と空は奇妙なほど静まりかえっていた。吉井がふとつぶやく。
 「行木、オレ達はビート板と言う手段によって、バベルの塔を建てようとしていたのかも知れないな……」
 「そう、人類の歴史はいつだって、神への挑戦と、その敗北の連続でした……。オレ達ももうすぐそのページの隅に書き加えられるのですね」
 「……つらいな、行木……」
 「ええ……」

 タナトスとエロスは常に隣合わせだ。水平線のはるか彼方に、エロチック大陸の蜃気楼が浮かび上がってくる。――なあんだ、ここにあったんだ。だから地図じゃ見つかんなかったんだ……。
 お迎えの船が近づいてくる。――おーい、ここだよォ! 笑顔で手を振る我々。思えば短い人生だった。みなさん、さようなら……。
 だが、船上から聞こえてきたのは、意外なことに中年漁師の塩辛声だった。
 「ビート板? こんな海の真中で? お前ら……何しとるんじゃ!?」

 その後の顛末については、下の新聞記事をごらんいただきたい。
 ともかく私は今、生きている。
 数限りない技術的反省点と、「冒険と無謀は紙一重」と言う体制からの批判を抱えたまま、生きている。だがその反省は、終章「これからの探検部」を読めば分かるように、自己に対する批判でありながらも、この様な行動は二度ととらないと言う非積極的な結論には、決して帰結するものではない。

(毎日新聞 1990年9月1日)

サマー'90 ――まぼろしの夏
第2次沖縄無人島サバイバル(9/4~16) 山口ツルヲ
記録

9/6  台風のため、沖縄本島から出られず。

9/7  昨日に同じ。

9/8  島へ渡航。無人島へは明日渡ることに決定。

9/9  無人島上陸。と同時に宇田川帝国独立宣言発布。生まれたままの姿でヤドカリなど食べる。

9/10 島内探検。島の最高峰を制覇。その後食糧探しにいく。

9/11 昨日に引続き島内探検。その後食糧探しやレンズで火をつける実験、タバコ作りなど。

9/12 実験1「海水を飲む」。3:1ならなんとか飲めそう。実験2「へそで茶を沸かす」。沸かなかった。食糧探し。

9/13 浜口、春山帰る。

9/14 全員帰る。合宿終了。


感想
 「ねぇツルヲー、アタイのパンストとってぇー」
 オレは重い腰を上げ、湿ったパンストを放り投げた。
 飲み散らかしたビールの缶を逆さにし、生ぬるいしずくをイラつきながら舌に受ける。西日しか差さない窓。薄汚れたティッシュの山。ドブ川の向こうを私鉄電車が通過していく音が、最近めっきり口数の減ったオレ達の暮らす部屋の空気を震わした。
 ……ああ、オレはなんでこんな生活をしているのだろう。沖縄で過ごした2週間がまるで夢のようだ。そう、あの頃はよかったなあ……。

 空と海がまるで一体のように思えるこの青い世界で、我々サバイバル班は、昨年に引続き無人島合宿を行なった。
 荒れくるう波を乗りこえ、たどり着いたのはまさに小島。ここで2週間を過ごすのか――。隊員の誰もがおそれを抱いた。しかし、しゃく熱の太陽と心地よい海風と青くすき通った海が我々をはげましてくれる。かと思えば、夜は凍えるように寒い。我々の作った小屋は思ったよりもろかった。
 それに加えて、食りょうの少なさが、育ち盛りのオレにはこたえた。しかも食べるものと言えば、○○○○に似ている貝とか、ヤドカリ、クモ、バッタ、ちょうちょ、フナムシ、あと、いかにも毒のありそうな魚とかである。唯一うまかったのがトカゲのかば焼きである。トリみたいな味がした。こんちゅう類は捕獲するのがとても大変なくせに全然うまくないので、これからは魚かい類を中心とするとよいだろう。
 合宿中忘れられないことと言えば、きれいな星空を見ながら、ヤドカリの合唱を聞いて、隊員個人個人の裁判が行われたことである。内容にはふれたくないが、この儀式は毎晩のように行われ、隊員間の強い心のつながりが生まれたはずである。
 つらい合宿であったが、昼間さんごしょうの見える海で裸で泳いだ後、昼寝をしている気分は、まるで天国のようであった。
 美しい美しい夢の世界……ああ、あの頃はほんとによかったなあ……。

 「やだぁ、ちょっとやめてよ! 今朝からもう何度目だと思ってるの!」
 気が付くと、オレはケダモノのようにオンナを組み伏せていた。……そう、ここは夢の世界じゃないんだ、これが現実なんだ!
 オレは汗くさい乳首に、ただもうむしゃぶりつくばかりであった。

1990年 後期
反省文「アニキの出した2台目の誠実マコト
富士樹海洞窟合宿(10/31~11/1) 行木敬
 樹海の縦穴へは「誠実マコト」に乗って行く以外交通手段はない。1台目の誠実マコトはハルヤマが出してくれたのだが、もう1台を誰が出すかが大きな問題となった。
 ここは、免許も有り、自宅でもあり、さらに部長でもある私が当然出すべきなのだが、困ったことに私は完璧なペーパードライバーで、また、親もこの日はどうしても誠実マコトを使わねばならないと言う。
 進退窮まった私は、いつの間にか部室でギターを掻き鳴らしていたらしい。今までに聴いたことのない様な悲しく激しいメロディーを私は口ずさんでいた。
 と、その時、私は目の前の人影に気付いた。
「あ……関口先輩?」
「行木、その曲……サビからAsus4でメジャーに転調できるはずだぜ。」
「……え?」
「つまりな……誠実マコトはオレが出してやるってことだよ、へへ、しょうがねえや。……その代わり、オレのことはこれから『アニキ』って呼べよな。なんつうか恥ずかしいけど、やっぱこうゆうのって大事なことだからな。」
「せ……先輩!」

 私とアニキがいつも部室で歌っている「ラブ・ネヴァモア」、実はこんな美しい出生の秘密があったのである。



ホットドッグプレス取材事件:何を勘違いしたのか、探検部に「ホットドッグプレス」が取材にきた。誠実に、あることないこと話して対応する。「わあ、これで良い記事が書けます」と言って記者は帰っていった。その後、「良い記事」が満載されたホットドッグプレスが店頭に並んでいた。
12/13~15、20~22 人体実験アルバイト合宿:喰っちゃ寝喰っちゃ寝を数日繰り返すだけで10万近い大金がころがりこむこのバイトは実に魅力的なものだった。何回もやりたいとは思わないが、金に乏しい今日この頃、妙に恋しくなる東京薬理研究所(03-3205-7501)ではある。
ありがとう、紙袋を抱えたサンタクロース達よ!
第2回浮浪者調査合宿(12/23~26) 行木敬作成の報告書より抜粋
- Ich gebe dir hundert Mark,
     wenn du mir zweihundert Mark gibst.-

『歌う様に、叫ぶ様に、そして
     愛する人を抱きしめる様に、私は探検する』

 19世紀の抽象的探検家 J.S.コッフェルの至言である。この様に一流の探検家と言うものは、常にその生活に探検を取り入れるものである。その意味で本合宿――1990年暮れに行われた「浮浪者調査合宿」――を、私は日常の中の探検として高く評価するのである。
 これは参加者である2年・行木敬、1年・山口輝雅、春山秀仁の三人が真の強い男であったと言うばかりではない。フランスの洞窟詩人 S.R.T.マリストはこう言っている。

- Regarde, une grenouille.
       Je veux l'attraper.-

『探すこと、そして検べること、
       燃えよラジウスこの命尽きるまで』

 そうなのだ、探検とは、自分の好奇心に対する異常なまでの執着心と、新たな事実を徹底的に解明してやると言う孤高の挑戦的理性、この二つを以って世界を探し、検べることなのだ! この合宿については、彼らの手によって、すでにブ厚い報告書が編まれている。彼らは探し、そして検べたのだ! この合宿こそ、まさに「探検」の名に値するものであろう。
 一世紀も前に神は死んだ。だが、探検は死んではいない。全てが知り尽くされた現代においてなお、探検精神のかかる巨大な炎を吹き上げた彼らの様な同志がいる限り――。今こそ私は、この三人に「真の探検家」と言う、人間として人類として最大の賛辞を贈ろうと思う。

 紙幅の都合でごく一部しか紹介できないが、以下、彼らの報告書を抜粋する。日程など詳しいことは添付の新聞記事を見てほしい。

<浮浪者たちのプロフィール>

No.001「リング」
(生活)「古雑誌などを集めて金を得る奴もいるが、オレはやっていない。ゴミ箱を漁り、夜は駅出口付近の小さな公園で寝る。昼の場所は決まってないが、一番いいのはこの場所、松尾芭蕉、紫式部」(←シャレだと思う) 今日がクリスマスだと言うことは知っている。
(思想)「女なら吉永小百合、男ならオレが最高」 その他不明。
(社会関係)「親、兄弟、友達、一切いない。」
(ほか)推定40歳前後。四六時中思い出し笑いをしている。指輪のような物を沢山はめているが、よく見ると単語帳に付いている様な金具。「公園に行くと女がいるので、あれは犯してもいいが、寒いとチンポが立たないので気を付けろ」と言うアドバイスをもらう。

No.005「指揮者」
(履歴)「38歳デス。16の頃から全国を転々としていました。」
(生活)「食べ物は拾ってますが、デパートの裏に行って『ワタクシこうゆう職業を
している者なんですが』と言えばたまにくれマス。おカネ稼いでる人もいますが、それだけじゃとても食ってけませン……。」寝場所は公園、昼の場所は不定、早いもの勝ち、クリスマスは知らない。
(社会関係)「友達はいませン。親もないようなものデス。」
(ほか)一日中、宙に円を描きながら「大阪……名古屋……横浜……」と地名を呟いている。「千葉のデパートは優しいデス。でも、今の時期はここより気温がマイナス3度低いのでつらいものデス」と語る。

No.007「いやいやじじい」
(ほか)推定年齢50歳前後。タバコを拒否。聞き込みに応じず、「後ろの奴に聞いてくれ」と、つれない態度。

No.011「親分」
(社会関係)「子分」、「嫌われ者」に対しカリスマを持つ。
(ほか)推定年齢60歳前後。「子分」と一緒に酒盛りをやっていた。物持ちらしく、調査者ツルヲは逆にライターと焼酎2本(ミニびん)をもらってほくほくだった。この焼酎は試供品であり、入手経路は不明。

No.012「子分」
(履歴)不明。むかしヤクザだったらしい。
(生活)「食べ物なんてそこら辺にいっぱいあるじゃないか。それにどうしようもなくなったら食い逃げすればいい。」 寝場所を尋ねてみたが返答は意味不明であった。
(思想)調査者ツルヲを正座させ、以下の様な説教をした。「あんた一人じゃ寂しいでしょう。まだ若いんだから、これからの人生のことをよく考えて勇気を持って生きて行けよ。でも、めったやたらに進んで行くだけじゃダメだ。それじゃ特攻隊だ。九州の人は肝が座っているからよいぞ。あんたパリに行きなさい。そして絵をやれ。また相談があったら来いよ。」 金に関しては「いらねえよ」と言っていた。理想の人間は村田英雄と「親分」。
(社会関係)親分と joking-relationship。
(ほか)推定年齢50歳前後。小説を書いているそうだが見せてはくれない。食い逃げのテクニックは、まず人の多いときに店に入り、たらふく食う。ボーイ、ウエイトレスの性格をよく見極めた上で、トイレに入り、しかる後堂々と出る。何か言ってきたら「何だよ、悪いのかよ、オレはここにいるから電話しろ」と言ってウソの電話番号を教える、とのこと。

No.013「嫌われ者」
(思想)「天皇のためなら腹を切る」という。
(社会関係)酒盛りをしている「親分」「子分」になれなれしく近付いて来たが、会話からは排除されており、そのうちどこかへ消えてしまった。もしかすると、顔見知りでも何でもないのかも知れない。その他不明。
(ほか)推定年齢60歳前後。

No.018「静かなるおやじ」
(履歴)「この生活は4~5年前から始めた。その前は寄り場の日雇いをやっていたが、嫌になってこの生活を始めた。」
(生活)「最近は寒くてどうしようもない。寝る場所はあちこち歩き回って寒くない所に落ち着く。働いていないので金は手に入らない。酒は弱いので飲まなくてもよいが、タバコには困る。食べ物は拾う。」
(社会関係)友達はひとりもいない。「寂しくないか」と問うと、小さくうなずいた。
(ほか)推定年齢40歳前後。調査の最後に、またここに話を聞きに来ていいか聞くと、はじめて微かな笑みを見せてくれた。

No.xxx「ビクター」
履歴、生活、思想、社会関係、一切不明。推定年齢20代後半。
 信じられない程汚れた肌(地黒でない証拠に雨水が跳ねた所は白い水玉になっている)、翼を広げた大鷲のような巨大な髪型、真冬だと言うのにタイトな股引き一枚から妙に長い手足を露出させ、ハナクソなどほじりながら歩き回る彼の姿は、目撃した者にある種の感動さえ与えよう。去年の浮浪者合宿においても、彼の不潔さは他の浮浪者から群を抜いていたため、我々は彼に最強の浮浪者――「ビクター」の尊称を冠したのだった。今年の合宿ではいよいよ彼に接触を取るべく、跡をつけたりしたのだが、さすがに「ビクター」、我々をあざ笑うかの様に、駅から街へ、また駅へと大規模な逃走を続け、ついにインタビューをする一瞬のスキをも与えずに我々の前から姿を消したのだった。
 ――ああ、ビクター! お前は一体何者なのだ! 人間は皆、お前の様に強くなれるものなのか! 寒さも汚れも、他者からの視線も、全ては無意味な皮膚感覚に過ぎないと言うのか! 語ってくれ、ビクター! お前はどこから来て、どこへ行こうとしているのだ! お前はその王国行きのキップをどうやって手に入れたのだ! 教えてくれ、ビクター!……ビクタア!! ――だが我々の魂の叫びは、虚しく夜の銀座に轟くばかりであった。

<合宿の感想>
 我々三人が、浮浪者生活への投企を通じてブチ当たった二つの超え難い「壁」。合宿を終えた春山秀仁(1・史)は、こう語り始めた。

 「……第一の『壁』、それは肉体的なもの、すなわち『寒さ』でした。
 「今合宿に当たって、浜口先輩の指導のもとに、数回における耐寒合宿が実行される予定でしたが、実行されず、その甲斐もあって我々三人は夜、死にたいくらいの寒さを味わうことができました。また、二日目の夜には、行木某(2・史)が、合宿から逃亡するなどのハプニングも起こり、改めて防寒対策の強化を痛感しました。
 「ええ、一日目は有楽町マリオンの下、二日目は地下鉄の階段、三日目は渋谷駅地下に通ずる階段に居をとったのですが、そのすべてにおいて冷たい風に悩まされ、熟睡できた日なんてありませんでした。特に三日目は、まわりの強い浮浪者達も寒さに耐えきれず、続々とその場を離れて他の場所を探し求めるような有様でした。眠ることは合宿において、最も基本的、かつ重要なサムシングなので、より一層の努力をもって次回に臨むことにしたいですね。

 「次に、第二の『壁』、すなわち食糧確保における、精神的苦痛についてですが……。
 「金を一切使わずに四日間をどう乗り切るか。食糧対策に我々三人は少なからず頭を悩ませました。一日目の夜は幸いなことに、コージーコーナーの前に積み上げてあったチーズケーキ(650円)をごっそりいただくことができ、それでなんとかしのげたのですが、問題は二日目でした。午後からデパートの試食品めぐりを決行しましたが、でもそんなもので人間の腹は満たされるものではありません。さすがに夜になると空腹で足もふらつく程でした。ところが、その空腹もピークに達した頃、なんとゴミ収集所において、ドーナツが大量に廃棄処分されているのを発見。三人で五日は持ちこたえられる量でした。始めのうちは死ぬほど幸せでしたが、でも3コ、4コと食べていくにつれて飽きてしまい、腹は減ってもドーナツは喰いたくない、と言うような事になってしまって、結局は三日目の昼に公園に捨ててしまったんですけどね。
 「食糧対策の基礎となるべきゴミ箱あさりがあまり効果を上げられなかったのは――そう、必要以上に理性が働いてしまい、人目を気にせずにゴミをあさることができなかったことが、最大の原因じゃないかな。人目を気にしない、これが浮浪者への第一歩だと知りましたね。」

 「……結局、オレ自身だったってことかな。いや、『壁』なんてものを築き上げたのは誰かって話ですよ。歌っていいスか。『自らの生き方をレンガの一片に焼き固めて壁を築いてしまう』……そう、壁を造ってしまうのは管理社会に毒されたオレらの弱い心なんですよ。
 「ああちくしょう、強くなりたいなあ! 自分の中の壁を壊せるくらい、強くなりたいなあ!
 「約束しますよ、来年の浮浪者合宿は十日、いや、一ヶ月はやります。自分の中の壁を壊して、その向こう側を見てくるまで、オレ、撤収しません。
 「じゃあオレ、バイトなんで……。」 そう言うと春山は、赤切れた手に白く凍える息を吹きかけながら、大塚の方へと歩き出したのだった。

(毎日新聞 1991年1月12日)

フォークゲリラ合宿中止事件:秋口より、部員のハートのチューニングを一つにすることを目的に、探検部の下部組織として指定されているサパンヌ美術クラブのギター、及び音楽芸術研究会のピアニカが、超法規的処置によって部に導入され、数多くのオリジナル曲が書かれた。大晦日にはこの熱いメッセージを街角の人々にも伝えるための合宿が組まれたのだが、折りからの冬将軍の襲来の前にやむなく中止された。

1991年 春休み
オレの羽ばたく空はイリアンにあった!
第三次イリアンジャヤ洞窟探査(1991/2/12~3/31) 大竹真
 ワメナを中心とした去年の春の第二次探査に続き、今回はさらに入域の困難なオクシビルで第三次の洞窟探査が行われました
 立教からは吉井先輩と、期待のホープ、つまりボクが参加したのですが、詳しいことは次の「極限」第三号に書きます。

良い人間になんてなりたくない
池袋~日本海徒歩縦断計画(3/24~28) 行木敬
 春、というにはまだ寒い日の続くある夜、ぼくは一通の手紙を手にした。
 「別れましょう」……それが二年に及ぶ純愛の、あっけない幕切れだった。
 歩いて日本海に行くことにした。ボロボロになりたかった。ただそれだけの合宿だった。

 24日、重たいザックを背負って家を出た。同行するはずだった二人は、直前になって参加を拒否してきたため、この旅は全くの一人旅だ。空は悲しいほどに晴れ渡っている。
 家の近くで、打ち捨てられた自転車を見つけた。妙な親近感を覚え、気が付くとぼくはその自転車にまたがっていた。立教から歩く予定を変更し、自宅からこの自転車で、江戸川→利根川沿いに北上する。
 機械のようにペダルを踏み続けること6時間。夕方になったので、栗橋と言う所でテントを広げた。しばらくうとうとしていたが、10時半頃、雨の音で目を覚ます。とりあえず遅い夕飯を食べたが、目が冴えて眠れなくなってしまった。何度寝返りを打っても夜はなかなか明けなかった。
 25日、雨が本降りになったため、自転車を捨てカッパを着込んで出発。土手はぐちょぐちょなので町中を歩いたが、そのせいでかなり道に迷う。疲労と寒さのため、羽生のちょっと先まで歩いたところで土手に戻り、テントを張る。体がだるい。風邪をひいてしまったようだ。湿ったシュラフにもぐり込む。本当にボロボロだ。この頃から、燃えているラジなど内省的な写真が増える。
 26日、いまだ雨やまず。昼過ぎまで歩いてみたが、風邪のため呼吸が苦しく、橋を見つけてその下で横になる。電車に乗るポイントを、当初の水上からちょっとだけ早めて武州荒木駅に変更する。来た道を駅まで引き返す。昨日から同じ所をぐるぐる歩いているみたいだ。電車に乗る。途中、車窓から谷川岳を見て気が付いた。あんな雪深い山、こんなカッコで越えられるわけないじゃん? 何の計画性もない。バカみたいだ。
 27日、新潟県鯨波の、誰もいない海水浴場から日本海を見る。強い風と、時折混じる雨に打たれながら、ぼくは、あの楽しかった二年間を単なる思い出に整理していく、自分の心の冷静さに必死で耐えていた。
 バサバサというすさんだ音に、ふと我に返る。ふやけたエロ本が足元で強風にあおられていた。テントに持ち帰ってヘッ電の灯りで読む。濡れたページを破かずに開くことだけに集中することで、しばしの間、救われた気分になる。でも、誰かがいまぼくの心のページを開こうとしたら、きっと簡単に破けてしまうんだろう。

 帰りの電車の中で、彼女からの手紙に返事を書いた。古い歌の歌詞だけを書きつけた、ホントに簡単な返事だった……。

もしもぼくが月にいたなら、クールになることもできただろうし
もしもぼくがドアだったなら、曲がることもできただろう
そしてもしもぼくが良い人間だったなら、
友達の間にも距離のあることがわかっただろう
もしもぼくが白鳥だったなら、泳ぎ去ることもできただろうし
もしもぼくが汽車だったなら、何度でも戻ることができただろう
もっともっと君と話あうことができただろう
(ピンクフロイド "IF")
あとがき「新たなる栄光に向けて」
行木敬
 全活動を余す所なく記載する事――煩雑になる愚を犯しながらも、この「極限2」は探検部の現状をより正確に、より客観的に明らかにできる、こうした編集方針をとりました。
 何故ならば、現状の把握こそ、OBの方々の不安と期待の焦点であり、また現役部員にとっても、今後の部運営を考える上で欠かすべからぬ認識であるからです。
 では、その現状における良い面と悪い面とはそれぞれ何なのか、そして良い面を残し悪い面を改善するためには、今後どの様な部運営をすべきなのか、このまとめのページを借りて、少し真面目に考えてみようと思います。

 近年の我が部の「良い面」――私はそれを、本誌を一読すればお分かりいただけるであろう合宿の多様性に求めます。
 別に我々は変わったことをやることを目的としている訳ではありません。しかし「探検」や「冒険」と言うものが、「好奇心を満たす」「やりたいことをやる」と言う気持ち、すなわち「夢を実行する」と言う気持ちを、最大にして唯一の動機としている活動である以上、多様な「夢」が多様な活動に結び付くのは当然の事であり、また、多様な活動をしていることこそ、我々が「夢」に忠実に活動を行っていることの何よりの証になるものでしょう。
 ――しかし、部の現状を客観的に見ることのできるOBの方々であれば、この多様性の理屈が、あるものからの「逃げ」でもあることを、簡単に看破してしまうでしょう。
 我々は「努力」から逃げているのではないか――そう、これが現状の「悪い面」です。

 歴代の資料から、1977年、当時2年生だったOBの野島さんが行った、徒歩による日本縦断単独行を例に取りましょう。
 稚内から桜島まで自らの足で歩き切ると言う、その「夢」の大きさの前に、我々の多様性などすでにかすんでしまいますが、さらに60日間たった一人で歩き続けたその根性、夢を夢で終わらせないために繰り返し行ったプレ合宿とその綿密な分析、こう言った「努力」の大きさに、私は激しい感動と尊敬の念を覚えるのです。
 少なくとも「夢を実行する」と称して活動を行うつもりならば、その「夢」と「実行」の間にある苦しい「努力」は避けられません。しかし、いま我が部の合宿に、そうした「努力」がたいして必要のないものが多いのはなぜでしょう。つまりそれは、苦しい「努力」が要らず、結果OK、とにかくやっちゃえ的なノリでも成功してしまう様なレベルに「夢」を制限していると言うことではないでしょうか。
 確かに、面倒な訓練や実験、できる限りの資料集めや渉外、また挑戦本番の苦しさ、長さ、そう言った「努力」の要素を排除してしまえば、みんなで楽しい合宿が行えます。しかし、立教探検部25年の歴史は、ボロボロになってゴールにたどり着いた野島さんが味わった様な力強い充実感の、気の遠くなる程の積み重ねなのです。これからも30年、50年と続いていくべきこの積み重ねを考えると、今の代が未熟な考えで、小さな「夢」に満足して「楽しけりゃいいじゃん」的な方向へ部をねじ曲げることは、恐ろしくもったいない気がいたします。
 とにかく、今の我々に欠けているものは、「努力」なしには実行できない、もっと大きな「好奇心」、もっと大きな「やりたいこと」もっと大きな「夢」を、「努力」して実行すると言う、当然な、そして真剣な姿勢であると、私は強く思うのです。

 さて、ここから先は具体的に、どうすればその真剣で当然の努力と言うものを部の運営に組み込んでいけるかについて、一つの考えを示してみたいと思います。
 今、仮に、世界で一番深い洞窟を、うちの部で探すことに決めたとしましょう。
 そのためには、部員全員が洞窟のプロになるために、1年なり2年なりの時間を、全てプレ合宿や勉強会に当てねばなりません。しかし、洞窟には人並みの興味しか抱いておらず、しかも他にやりたいことがはっきりしている者にとって、その状況では「夢」は見れないことになります。これでは最初に宣言した、立教独自の良い面である「夢を実行する」と言う大事な雰囲気が硬化してしますし、また、共有できない「夢」に対して、どれだけ真剣な努力ができるかも疑問でしょう。
 力強い充実感が得られる活動にはその「夢」に対する強い憧れが必要であり、そしてそれ程の憧れを抱ける「夢」など人それぞれである、となれば、そうした活動は基本として個人的なものになり、探検部の活動は二重性を帯びてきます。
 そして私は、それで良いと思うのです。
 ある部員が、何らかの「夢」を抱く。その「夢」を実行するための技術を修得し、実験や研究を繰り返し、情報を収集し、必要なら協力者を見つける。そうした努力の日々に疲れたら、それとは無関係な単発的合宿を楽しむ。そして、勝負の長期休暇が終わり、学期最初の部会、探検をしてこんな事を発見したとか、冒険をしてこんな事を経験したとか、そう言った報告を誇らしげに発表する。……ああ、そうした部になったら何と素晴らしいことでしょう!。
 そう、「夢」の小さな、しかし純粋に楽しい単発的合宿を、チーフリーダーにおまかせで組んで行った近年の探検部では、レジャーでなくあえて「探検」を名乗る必要性も、集団としての「部」の意味も有りませんでした。しかし、このやり方なら、諸先輩の技術や情報、あるいは装備の蓄積としての「探検部」は、部員の「探検」や「冒険」と言う「夢」を実現させるために活き、楽しさ指向の合宿も、ヒマつぶしではなく、解放の時間として、あるいは自分なりの「夢」を見つけ出すヒントとして活き、そして何より、部員一人一人が、本当の自由に裏付けられた、あの力強い充実感の中で活きることができるでしょう。
 しかもこうした体制への切り替えは、今の立教探検部からなら、実に簡単であります。なにせ「やりたいことをやる」と言う雰囲気はもうできているのです。後は、もっと大きな「夢」への憧れ、また、その「夢」が大きければ大きいほど当然、かつ真剣な「努力」が必要になると言う認識、そして、そうした「夢」のために努力を続けている部員に対する協力と敬意、この三つの当り前の姿勢さえ定着すれば、うちの部は、今のこの雰囲気を保ったまま、もっともっと充実した活動ができることでしょう。

 今日、部室で「夢」を聞いてみました。
 1年生、平野は、ユーコン川をカヌーで全流下りしたいとのこと。来年の夏までの二回の長期休暇は、全流下りの試行錯誤のチャンスとして、有効に活かして欲しいものです。
 鈴木は「パナマ運河沿いのジャングルをやぶこぎして、大西洋から太平洋へ抜けたい。」かなりハードですが、やぶこぎが日本一似合う男なので、きっとやってくれるでしょう。
 隈本は、まだ夢を模索中と言う雰囲気ですが、探検部史上、最も探検に真剣な態度で臨む男であり、個人的に大変期待しています。
 2年生の新入部員、大宮は、私が敗北した瀬戸内海ビート板横断を成功させるため、ルートとやり方の研究に余念が有りません。
 山口は、何でも喰える、どこでも楽しめると言う特異な才能を活かし、今年は瀬戸内海での手製イカダによる漂流を計画しています。でも死ぬなよ。
 春山は、来年の春、中国の少数民族の調査に行く予定です。中国での調査は政府がうるさいようだけど、その辺については、リラさん、あなたがいるじゃないですか。
 大竹は、例の25周年記念企画、岐阜県の新洞発見計画のチーフであります。きっと去年のような強さを今年も見せてくれるでしょう。
 3年の私は、今年の夏2カ月ほど、ニューギニアの山岳民族の所で住み込み調査を行います。
 4年の吉井は、世界最深の洞窟を発見するまでは、不退転の姿勢で大学生を続けるそうです。夏には中国へ洞窟探査に行きます。

 大きな夢が出そろい、大きな努力も始まっています。そう、立大探検部はすでに走り始めたのです。新たなる栄光に向けて……。
 次回の「極限3」には、期待して下さい。約束します。我々はやってみせます。

「寄付金ありがとうございました」
89年度OB会寄付¥30、000- 
藤森 義男氏¥10、000- 
八木 伸太郎氏¥5、000- 
村山 康夫氏¥10、000- 
大前 毅氏¥10、000- 
奥田 等氏¥2、000- 
田口 博伸氏¥1、000- 
保坂 幸利氏¥5、000- 
森田 朝規氏¥10、000- 
坪井 宣明氏¥2、000- 
茂呂 忠洋氏¥10、000- 
江口 秀俊氏¥10、000- 
鈴木 洋一氏¥10、000- 
(順不同) 
 
91年度OB会寄付(現役生たちの宴席の支払いというかたちでいただきました。ありがとうございます)
鈴木 洋一氏¥10、000- 

以上、この場を借りて感謝申し上げます。
探検部 顧問・歴代部員・関係者 住所録(1991年7月現在)

[住所や電話番号、勤務先は伏せました(行木・2018年)]


注:できるだけ確認を取ったつもりですが、それでも若干現住所不明(※マーク付き)の方がおられます。ご存知ある方がございましたら、23代目行木までご連絡ください。

顧問
高浦 忠彦(本学 経済学部 教授)[住所][電話]

OB/部員
・初代
藤森 義男※ [勤務先]
八木 伸太郎 [勤務先][住所][電話]
刈谷 政則  [勤務先][住所][電話]
原田 祐介  [勤務先][住所][電話]

・2代目
大熊 進一  [勤務先][住所][電話]
高橋 敏夫  [勤務先][住所][電話]
堀之内 芳久※

・3代目
佐藤 継朗  [勤務先][住所][電話]
一ッ木 俊道 [勤務先][住所][電話]
江口 秀俊  [勤務先][住所][電話]
春日屋 誠※ [勤務先]
菅沼 良樹  [勤務先][住所][電話]

・4代目
飯塚 均   [勤務先][住所][電話]
吉野 孝※

・5代目
岩本 和夫  [勤務先][住所][電話]
森田 朝規  [勤務先][住所][電話]
鈴木 隆   [勤務先][住所][電話]
長谷川 勇蔵※[勤務先]
北川 泰昭  [勤務先][住所][電話]

・6代目
村山 康夫  [勤務先][住所][電話]
相馬 栄治朗 [勤務先][住所][電話]
石川(旧姓 徳武)浩昌※[勤務先]
坪井 宣明  [勤務先][住所][電話]

・7代目

・8代目
佐藤 満   [勤務先][住所][電話]

・9代目

・10代目
船串 章文  [勤務先][住所][電話]
大前 毅   [勤務先][住所][電話]
保坂 幸利  [勤務先][住所][電話]


松岡 義雄  [勤務先][住所][電話]
鈴木 洋一  [勤務先][住所][電話]
宮下 宏幸  [勤務先][住所][電話]

・11代目
野島 洋一  [勤務先][住所][電話]
高橋 信二  [勤務先][住所][電話]
茂呂 忠洋  [勤務先][住所][電話]
清水 康之  [勤務先][住所][電話]

・12代目
柴田 雅一  [勤務先][住所][電話]
田中 幸彦  [勤務先][住所][電話]
浅野 洋介  [勤務先][住所][電話]
斎藤 秀実  [勤務先][住所][電話]
西山 敦   [勤務先][住所][電話]
奥田 等   [勤務先][住所][電話]

・13代目
高橋 一旗  [勤務先][住所][電話]
栗栖 康範  [勤務先][住所][電話]
橋岡 淳   [勤務先][住所][電話]
過足 幹士  [勤務先][住所][電話]
松沢 直浩  [勤務先][住所][電話]
峰 和夫※  [勤務先]

・14代目
松山 明   [勤務先][住所][電話]
鈴木 直文  [勤務先][住所][電話]
鈴木 雅徳  [勤務先][住所][電話]
合田 毅   [勤務先][住所][電話]
小菅 謙   [勤務先][住所][電話]
矢ケ崎 玲  [勤務先][住所][電話]

・15代目
岩岡 稔員  [勤務先][住所][電話]
田口 博伸  [勤務先][住所][電話]
池田 雅範  [勤務先][住所][電話]

・16代目
上田 和成  [勤務先][住所][電話]
榛葉 由紀夫 [勤務先][住所][電話]


小野寺 修一 [勤務先][住所][電話]
槙埜 克己  [勤務先][住所][電話]
鈴木 健二  [勤務先][住所][電話]
柿沼 修   [勤務先][住所][電話]
原 穂高   [勤務先][住所][電話]

・17代目
木村 恵津子 [勤務先][住所][電話]

・18代目
田中 修   [勤務先][住所][電話]
細谷 淳※  [勤務先]
大山 祐一  [勤務先][住所][電話]
橋本 英明  [勤務先][住所][電話]
田池 信起  [勤務先][住所][電話]
赤城 聡   [勤務先][住所][電話]

・19代目

・20代目
山本 宗義  [勤務先][住所][電話]
伊予木 圭二 [勤務先][住所][電話]
松野 真也  [勤務先][住所][電話]
高坂 俊幸  [勤務先][住所][電話]
角田 哲也  [勤務先][住所][電話]
埋橋 浩司  [勤務先][住所][電話]
門間 理良  [勤務先][住所][電話]
宇田川 博彦 4・法[住所][電話]

・21代目
浜口 俊   4・法[住所][電話]

・22代目
吉井 靖人  4・法[住所][電話]
込谷 肇   4・経[住所][電話]
関口 佳和  4・経[住所][電話]
鈴木 順子  4・英[住所][電話]

・23代目
行木 敬   3・史[住所][電話]
坂田 恭子  3・仏[住所][電話]
飯場 竜治  3・史[住所][電話]
中村 牧子  3・心[住所][電話]
原 三和子  3・英[住所][電話]
銭谷 直生子 立教女学院[住所][電話]

・24代目
大竹 真   2・社[住所][電話]


山口 輝雅  2・社[住所][電話]
春山 秀仁  2・史[住所][電話]
大宮 崇   2・営[住所][電話]

・25代目
鈴木 日出海 1・営[住所][電話]
平野 達也  1・観[住所][電話]
隈本 昇   1・観[住所][電話]
井上 大介  1・法[住所][電話]
多々良 桂  1・仏[住所][電話]
松宮 かおる 1・英[住所][電話]

その他
立教大学
〒171 東京都 豊島区 西池袋 3-34-1
学生部 03-3985-2440 (緊急時 03-3985-2437)
部室 (呼)03-3985-2679
極限2
1991年7月発行
立教大学探検部

おまけ

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