立教大学探検部 部誌

『極限』創刊号(1972年)


 記念すべき「極限」の創刊号。
 当時はまだアメリカ領だった沖縄で、あるいはクマが徘徊する北海道の山中で、さらには韓国で、メラネシアの島々で、洞窟川下り無人島登山にと、創設からわずか2年の間に実施されたとは思えないほどハイペース、かつパワフルな活動が綴られている。この先輩方の熱い青春が、その後50年続くわれわれ探検部の礎となったのである。
 川下りや洞窟などに、現在とは微妙に違うやり方が散見できる点も興味深い。まさしくこの時代、この人たちが、手探りで探検技術を確立していった世代であったことがうかがえる。
 個人的には、日本の文化人類学界の草分けであり重鎮でもあった故 石川栄吉先生が、実は探検部創設時の顧問で、一緒に合宿にも行っていたことに驚かされた。

 同時に、たとえば西表島の踏破で、現地住民のアバウトな説明に右往左往したり、予想外のトラブルが予想通りに続発したり、もう到着だと油断して水を飲み干して痛い目にあったり、そんなこんな全部ひっくるめて「探検の醍醐味」と強がってみたり、その辺のノリが50年前から何ひとつ変わっていないところに「立教魂」を強く感じたりもするのである。(行木敬)
極限 創刊号 1972 立教大学探検部
横当島 西表島 メラネシア
元浦川川下り 富士熔岩洞 メラネシア

いっぱいある地図の中から
僕はどういうわけか
何もかいてない地図を買った
でもそれは地図といえるのかな?
だってそれは白紙なんだ

机の前にある地図の記号をもらった
僕の地図に山がある
燈台も水田も滝もある
記号のいっぱいあるところを線で囲ったら
僕の地図に島ができた

大海原にポツンとある僕の島
明日僕は301mの山に登る
ザックに荷をつめ靴もみがいた
そして明後日には海へ
僕は地図に道をつける

僕は 何もかいていない地図を買った

大熊進一
創刊にあたって
主将 ーツ木俊通
 我部も創立してから4年めを迎え、ここに今までの活動の記録をまとめて、部報「極限」を創刊することになり、これまでの活動に御協力下さいました方々に心からお礼を述べさせていただきます。探検部としては新しい立教大学探検部ではありますが、部員たちはたえず、『未知なる自然、文化へのあくなき追究』を目指して活動してまいりました。決っして十分な活動をして来たとは思いませんが、今までの基礎段階の活動を第一ステップとして、今後の第二ステップより次の飛躍を期待していただければ幸いと存じます。
行動日程
1968年 10月 立教大学探検部創設
1969年3月西表島横断(沖繩八重山諸島)
5月白樺湖(新入生歓迎合宿)
武甲山(トレーニング山行)
7月 韓国
沖永良部島洞穴調査
無人島"横当島"(トカラ列島)
10月青岩洞調査(山梨県)
1970年1月草間台洞穴調査(岡山県)
倉沢洞・小袖洞洞穴調査(奥多摩)
4月西表島川下り
西表島島民意識調査
安家洞穴周査(岩手県)
韓国(済州島)
5月伊豆大島(新入生歓迎合宿)
仙丈・甲斐駒ヶ岳
6月青岩洞調査
多摩川川下り
八ヶ岳(トレーニング山行)
7月北海道日高 沢調査、川下り
こけし調査研究(宮城県・福島県)
第2次安家洞穴群調査
海外遠征"メラネシア"
10月穂高連峰
八海山(トレーニング山行)
富士山日韓親善登山
11月第3次安家洞穴群調査
12月八ヶ岳(冬山訓練)
1971年3月椎葉洞穴調査
4月富士樹海溶岩洞調査
5月小袖洞穴(新人訓練)
6月仙丈岳歩荷訓練
秩父武甲洞、根古屋洞
7月椎葉2次洞穴調査
10月安家洞穴調査(盛岡グアノ会合同)
青木ヶ原 富士熔岩洞研修会参加
離島編Ⅰ 横当島
概要・地図
 横当島は、吐■喇列島に属する。吐■喇列島は鹿児島県大島郡。鹿児島県本土と沖繩島との間に弧状に連なる薩南諸島の中央、29度~30度Nの間に北東 ― 南西に連なる小火山列島で、北からロ之島、中之島、臥蛇島、平島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島、そして我等の目的地横当島の9島と付近の小さな島、岩礁からなる。臥蛇島と平島は西部の旧期火山帯に属し、ロ之島、中之島、瀬島には活火山がある。
 気温は中之島で年平均20度C、最低月1月の平均も9.8度Cの亜熱帯気候で、降水量は年に2800mm内外、宝島、小宝島には珊瑚礁が発達している。臥蛇島は灯台関係の人だけ(平常交代制で6人)が住んでる。小島で生産力にも、めだったところは見られず、交通が不便である。全島が行政上、十島村に属している。
 この吐■喇列島の中の横当島は、北緯29度40分、東経129度21分、面積3.7k㎡。霧島火山帯に属する火山島で輝石安山岩から成る。瓢形で西部は256m、東部には512mの山がある。奄美大島との距離は約70km。そして、無人島。この島は2~3000年前に東西ふたつの島が火山の噴火により結合したものと言われる。周囲は垂直に海に落ち込み、島は木が生える
周囲 約9㎞
東西 2㎞
面積 3.7K㎡
横当島
のも拒絶している。接合部の南北にくびれたところが天然の入江になっている。東島にある火口は噴火時代が比較的新しいため、殆ど垂直に140mも落ち込んでいる。島の表面は黒色、赤色の熔岩でおおわれ、火山砂、火山礫、火弾が散在する。
行動報告
大熊進一・小林滋樹
7月31日
 待ちに待った無人島への船出の日である。7月25日に奄美大島に着いて以来、台風7号のために波が荒く、船を出すことができず、きょうこそはと思いながら1週間を費してしまった。午後11時45分、名瀬港を賢洋丸は静かに横当島へと舵をとった。空には無数の星が我々の無人島生活の成功を祈るかのようにきらめいていた。

8月1日
 6時前に目がさめた。そして目の前には荘厳なほど人を寄せつけない荒々しい島があった。これが、これから一週間生活していく横当島である。きりたった崖、ほんのわずかな砂浜、そして雲に頂きを包まれた山。7時上陸を開始する。ブイを使っての急造のイカダを組み、1人ずつ30キロのザックを背負い、イカダに乗り、先に上陸した船長さんにイカダを引いてもらって上陸した。上陸してから島を見てまわったが、ガラガラの岩だらけの島で、テントを張る場所にも困る程である。北海岸の方は波も穏やかなのでおりてみたが、南海岸同様たくさんの流木があった。ヤシの実がひとつ流れついていた。船を見送りながらきょう1日の行動を決めた。まずテント設営。北海岸の方にわずかな平たんな場所を整理してテントを張った。それから我々の命の綱である水を北海岸の方に置くことに決め、18リットルのポリタン10個を移動させた。次に炊事場をつくってから、島の下調べにかかり、きよう1日の行動を終えた。夕食を済ませてからテントのまわりに集まり、ミーティングを行なった。無人島に夜はすぐやってくる。今まで明るかった空もすぐに暗くなる。しかし、そのかわり星がプラネタリウムのようにその姿を見せてくれる。

8月2日
 意外と朝は涼しいものだ。午前中低い方の山へ登る。なんと暑いことか。頂上へ着けばいい所があろう。希望のある苦しみ。頂上へ近づくにつれ木が多く生えている。登るには邪魔物だ。頂上へ着く。どこが頂上だかさっぱりわからぬ頂上だ。頂上にあるのは、視野を妨げる木と暑さだけ。眼下に見おろす我等のテントのみかん色だけがはつらつとまぶしい。そのまま山をおりる。
 昼頃に漁船まで泳いでいく。乗り込んで氷を食べた。漁師さんも久々に会う人間に、また若者に話が進む。入生の偶然性のおもしろみのひとコマ。物々交換で得た魚1匹を島に持ち帰る。島に残ってた2人の残念そうな顏。魚をはさんで大漁の記念写真を盛大に撮る。昼飯の豪華さ。
 温泉の発見。その暖かさの快さ。背のびして、からだの中までほくほく顔。幼稚な遊びは非常な楽しみ。再び皆漁船に渡る。冷たい水は暑さの中のレモン。無人島にいる気持ちをしばし忘れる。

8月3日
 500メートルの山に登山決行。石炭がらを高くしたような山のため非常に登りにくい。下から見るとそんなに高い山ではないが、登っていくうちに、その高さが身にしみてわかってくる山である。約2時間で頂上に着く。登りつめるとその前にポッカリと約150メートルほどの火口が口を開いていた。横当島の隣りにある上根島や火口のかなたに宝島などが見える。火口の中はかなり大きな木が生えており、鳥やチョウも飛んでいた。約1時間で下山し、12時すぎにテントのもとに帰りついた。汗でびっしょりなので昼食の前にひと泳ぎすることになり、きのう行った第八幸栄丸まで泳いだ。北海岸には温泉のわきでている所があり、潮の満ち引きの関係で適度の暖かさになり、疲れをいやすのにちょうどいい温泉になる。皆それぞれ、はいりやすいように岩をどけたりして温泉にケムンパス温泉や熊の湯などと命名した。あいも変らず夜空の星は美しい。天の川も驚くほどきれいに見える。その中を流れ星がサッとはしっていく。東京の空はどこへ行ってしまったんだろう。

8月4日
 暑い。小屋造り。できそこないの完成。夜、突然風と雨に襲われ、テントが破壊された。今まで太陽と地面からくる暑さでまいっていたのが、こんどは風と雨か。小屋で寝る。

8月5日
 7時起床。体操をしてから朝食にとりかかる。ガラガラした岩ばかりのため傷を負う者がふえてきたので、南と北の海岸を結ぶ道の整理を行う。道といってもそれほどのものではなくただ単に他よりも歩きやすいところだけのものである。きようで無人島生活も5日めとなり、ふたつの山も登ったし、小屋も建てたので、本日は道路整備を終えた後は思いきり泳ぐことに決めた。南海岸は波も荒く重油などが流れてくるが、北海岸は穏やかで泳ぐにはもってこいの場所である。カニや木登り魚などたくさんいるが、フジツボなどの足を切るのにもってこいの貝もたくさんある。海はすはらしいの一言につきる。水族館で見るような熱帯魚の群れがあちこちに見られる。珊瑚礁と熱帯魚。ほんとうにすばらしい光景である。百聞は一見にしかずのことばが身にしみてわかる。熱帯魚と泳ぎまわったり、イカダを組んでその上に乗ってみたりして充分に海を楽しんだ1日であった。台風8号が近づいたためかスコールがやってきたり、強い風が吹きはじめた。寝るだんになって突風がテントに吹きつけ、ポールが1本折れてしまった。折れたポールをはずし、この日は片ちんばのままで夜を過すことになった。今まで夜空をあおいで寝ていたのでテントの中は暑苦しくて、なかなか寝つかれない。風はまだ激しく吹いている。そのたびにポールはぐらっとゆらぎ非常に不安定である。夏の暑日にはここちよく感じる風も、無人島では恐怖感さえ感じさせる。

8月6日
 多分、翌日船がむかえに来てくれるだろうと心をはずせる。しかし期待が裏切られた時の辛さゆえ、故意にあすは来ないだろうと、自分に思わせる。なんとう小さくばからしい気持ち。まあ、無人島にいるのだからそのくらいは戯れてやろうと忘れた。風が強いためいつもと反対側で飯をたく。むかえに来てくれない時の用意にと、少ない飯を多く見せてたいた。おかずはみそ汁と、かすかな物。あす船が来ないと今から台風の過ぎる3日間くらいこの食事をする予定。山へ登ってふきをとってきて食べようという話がでた。なにがなんでもないことを、若者独自の方法でオーバーに考え、気をたかめらせて喜んでいるよう。なにしろあすを待つ。

8月7日
 きょうは船が来ないのを予測して、遅い起床に朝鈑抜きという方法にでた。小屋で目が醒め漫画をよんで時間を費した。だるくて昼飯を作るくらいなら、いっそのこと抜きにしたいと思った。ある者は釣をしているようだった。風が強く吹く。腹の中まで吹き抜けて、佗びしく、しおれていく感じ。その時、「船が来たぞ!。」という声が聞こえた。うれしい。上陸と同様イカダで船に乗り込む。何か船に乗ったその時に、本土へ着いたような気持ちになった。台風で波が高い。船は揺れに揺れた。実に気分がいい。日本一の乗り物ではなかったか。我等の青春の一舞台になった横当島。その島も徐々に徐々に遠ざかっていく。さようなら横当島。さようなら。
〔参加者〕
藤森義男(リーダー)
大熊進一
堀之内芳久
菅沼良樹
春日屋誠
小林滋樹
離島編Ⅱ 西表島
概要・目的・地図
 九州南端から南へ約1000キロ、北緯24度15~25分(台湾、台中とほぼ同緯度)東経125度40~55分の洋上に八重山群島の一つの西表島がある。島の面積は淡路島の約半分で、沖繩では本島に次ぎ二番めに大きい島で、日本の南のはてになる。島の大半をジャングルが覆って人間生活を寄せつけず、約4000人の住民は島の東と西のわずかな平地にかたまっているが、人口密度は1平方キロ20人に満たない。様々な開発計画が描かれはしたが、多くの犠牲者を出して失敗。動・植物は台湾以南と類似するものが多い。
 西表島の「イリ」は、太陽が西に沈む、その「イリ」だそうだ。西のはずれの島という意味であろう。東隣には石垣島があり、八重山群島の中心で、市内には多くの官庁があるが竹富町(西表も含まれる)の役場もある。石垣港から西表島東海岸の港まで20トン程の船が定期運航している。ちょっとシケれば欠航する。船は2時間半程で大原へ着く。
 島には深紅のハイビスカス、赤紫のブーゲンビリア、薄紫や白のフヨウ、美しく咲くラン等、様々の花が咲きみだれる。しかし島の九割を占めるジャングルには縦横に獣道が走っている。自然がこれだけの豊かな色彩を残しているのは、島の歴史と人々の生活に密接な関係がある。様々な大きな計画が立案されたが、最近では琉球政府あたりでも「あの島は結局どうにもならない」という人もあるという。本土政府による離島振興費で電気、通信、簡易水道、橋等は造られてきているが、島を一周する道路はなく、西海岸へ行くには石垣にもどって船を乗りかえなければならない。島の中央は険しい山岳と広大なジャングルで、山ヒル毒グモ、ハプがいる。医者は全島に1人である。島の産業としては、主産物のパイナップルとサトウキビがある。イノシシは島の住民の重要なタンパク源で全島には1万~1万5千といわれる。捕獲は台湾人がもたらしたハネ罠でかなりの収入源になってる。イリオモテヤマネコは新種どころか、新しい属のネコ属の原型ともみられる原始的なヤマネコといわれ学問的にはかなり貴重であり、その生態写真はまだとられていない。

 我班は、西表島において、東部仲間川をゴムボートで逆上し、諸々の記録を採取しさらに浦内川に至る原生林を踏破し、そこに生息する様々な動植物を調査し、再びゴムボートによって浦内川源流から川口まで冒険的に流下し、横断せんとすることを目的とする。
浦内川 御座岳 古見岳 仲間川 外離島 内離島
浦内 古見 大富 大原 白浜
吐■列島 種子島 屋久島 西表島 奄美大島 徳之島 沖永良部島 与論島 沖繩島 那覇 宮古島 石垣島 西表島 尖閣列島 基隆 台北
西表島
横断行
刈谷政則
 我々一行が、目的地「西表島」に到着したのは、3月29日の昼下がりであった。予想外の障害に悩され、まさに「やっとたどり着いた」の感があった。4月5日には、再び石垣に戻らねばならぬとあって、当初の計画は、大幅な縮少を余儀なくされ、白浜から大原への横断コース一本に限らざるを得なかった。
 石垣港から10トンというポンポン蒸気にゆられ、その想像を絶する海の青さに酔いしれて、夢見がちな第一歩をしるした白浜は、思いの他大きな集落であった。この日の宿を求めた小学校(正確には、白浜小中学校)の校舎は、本土の僻地では考えられぬほどモダンなもので、アメリカの皮肉なほど完璧な外面的政策を思わせた。

 翌30日の行動は、ニ班による分裂行動に決定し、A班は、このまま横断に出発、B班は、舟をチャーターして舟浮方面へ、その後一日遅れで横断コースをたどることになる。
 この日は朝から小雨まじりの誠に悪い状態、前途多難の徴候は、出発前から歴然としていた。我々A班が学校を出たのは、7時40分、あい変らずの小雨の中であった。計画的に重量の調整を計ってきただけであって、ザックは思いほか軽く感じられる。まことに快調なペースで、租納についたのは、まだ9時であった。
 白浜から租納、千立にかけてはかなり幅広い道路が続いている。ちょっと故郷の田舎道を思わさせるほど平凡な風景である。時々、小学生ぐらいの男の子が通る。必ず帽子をとって「おはようございます。」と声をかけてくれる。実にさわやかな、気持ちの良いあいさつである。足どりも軽く、千立に着く。
 9時30分。千立を出発した頃から、ぐずついていた空が、大きな水滴を落とす。この分では、B班の出発は、おぼつかないのではなかろうか、と気にかかる。(その日の日記には「B班の中止が予想され、すこぶる愉快」とある。)
 浦内川の手前で、道は二つに分れる。我々はさしあたりての目的地「いなば」への細い小道をたどる。山あいを縫う貧弱な道で、いよいよ本格的な横断コースに入ったことになる。疲れも徐々に顕著化し、行末が大いに案じられる。
 浦内河畔に出る。誠に大河で、水の美しさは抜群、流れは、ゆったりとたゆとうている。岸辺に詳生する熱帯植物が、川に暗い影を投げかけ、神秘に満ちた、底知れ深さを思わせる。道は、登りが多く苦しさがつのる。雨のおかげで、暑さが大分緩和されているのが、この上もなくありがたい。
 浦内河畔唯一の村、「いなば」に到達したのが、11時30分、ほぼ予定通りといえる。うらさびれた村で、屋根の上をカラスが飛び回る様は、生命を失った廃村を思わせる。ここで昼食と決め、しばし重い荷物から解放される。ぶかっこうに広がりすぎたホットケーキをほうばる。見かけの割には、けっこうおいしい。多少、食べすぎの傾向もあったが、1時半、おもむろに腰を上げる。
 道はさらに細くなり、ついには、田んぼのあぜ道となる。牛のふんを飛び越え、なんの懸念もなく、ひたすら前進する。浦内川の右岸をたどっている限り、絶体にまちがいはないはずであった。
 2時ちょうど、道を見失って立往生。地図によるともう、岸に渡るべき地点に達しているにもかかわらず、橋らしきものもなく、全く弱る。しかしそこは探検部きっての屈強な4人――といえば聞こえは良いが、さんざんちゅうちょしたあげく、半分やけくそで川にとび込む。断固川の中を前進しようと決意したのである。(後になってから、考えてみると、あの雄大な大河が、わずか1時間ばかりさかのぼった地点で、こんなせせらぎに姿を変えているとは、どう考えても妙ではないか。)この時点では、この川が浦内本流であることは、全く疑うべくもなかったのである。したがって、これをさかのぼれば、必ずや道を発見できるはずであった。しかし楽観的予想に反して、ようとして道は発見できない。川は、熱帯植物の黒いかたまりでおおわれ、無気味に薄暗い。ワニでも現れそうな雰囲気。これでは、悲観論者ならずとも不安はつのる。水の中を歩きはじめてから、もう1時間はたつ。4人で論議した末、ここは、ひとまず「いなば」まで引き返すことに決する。道を教わってから出なおすしか手はあるまい。横断初日にして、探検の醍醐味を味わうことになろうとは。やっとのことで「いなば」まで引き返すことに决する。
 やっとのことで「いなば」まで引き返したのが4時30分。もはや進むのは、断念せざるを得ない。一応この地にキャンプすることに決定。実質的には、昼食時から、全く進んでいないことになるから、4人ともくさることしきり。まずは、土地の人に、状況を尋ねる。我々は、どうも浦内川の支流をたどってしまったものらしい。全く馬鹿げたミスである。
 案内を請うて、問題の地点まで行ってみる。我々は本流と支流の分岐点を見のがしたものらしい。その分岐点は、こんもりとした木立におおわれていて、ちょっと判別できないのである。土地の人は裸足で誠に軽快に走る。我々の大仰な身なりが、妙な違和感を生じる。土地の人に言わせると「なんとも、たいそうなことで!」ということになる。
 案内のお礼として、チョコレート、ラーメン、ソーセージなどを持参して、夜、しばしの歓談の時を持つ。電気のない住居は薄暗いランプの光が、陰気にただよっている。しかし人々は、その雰囲気にさからうように、花札に打ち興じ、又楽器をかなでる。10人ほどの男性の中にいる、ひとりのうら若き女性が印象的。

 3月31日、昨日の失敗を挽回せんと、早朝6時30分起床、しかし朝食をとり、テントをたたんだ頃は、はや9時すぎ。その上雨がはげしい。これでは、浦内を渡れるかどうかが危ぶまれる。今日も、はなはだ苦しい行程になりそう。  9時30分出発。今度は、まちがいなく例の分岐点を確認し、支流を渡り、本流の右岸に出る。もっとも、この支流には、ひどい丸太が、かかっている(というより、むしろ落っこちている。)だけで、とても橋があるとは言えない。しかも、昨夜来の雨で水量が増し、丸太は、半ば水中に没しているというありさま。腰まで水につかって、どうにか最初の難関を突破し、浦内本流ぞいの細い小道をたどる。極端に狭い、岩壁にへばりついた道である。随所に貧弱な丸太の橋がかかっており、やっとなんとか通行可能という、まことに不安な行程。  目ざす、カンピレー滝の標示板のある地点にたどりついたのが、10時40分。さらに前進するためには、この広大な本流を横切らなくてはならぬわけである。ところがここには、多数の岩が、水中から頭を出してはいたものの、おりからの増水で、岩と岩との距離が、かなり開いているのである。ここまで来たからには、どうしてもカンピレーは見たい。ザックを置いて軽身で横断を試る。ところが、ここで高橋が足をすべらして、水中に落ちるという、予測せざる事態が勃発し、やむを得ずカンピレーは断念する。なにしろ時間に追われている身正規の道をただただ急ぐ以外に手はない。
 右岸の道がパッタリとだえ、昨日と全く同じ事態に遭遇する。きのうの経験もあること、今度は、慎重に事を計る。我々2年生は、ひとまず左岸に渡り、1年生は、さらに右岸を探索するという手はず。
 さて、やっとのことで左岸には渡ったものの、そこに存在する明瞭な小道が、はたしてカンピレー滝への別個の道であるのか、あるいは、正
規の道が、たまたまカンピレーを通過するのが依然として判然としない。1年生の方も同様のことが言え、山頂に続く道がたしかにありはするが、それは単なる観測箱の道とも考えられるのである。
 しかし、その険しさから、又距離的判断からしても、どうも左岸に渡るのが賢明らしいという、はなはだあいまいな結論に達する。しかもザックを背負っての川越えである。川は刻々とその量を増してる。まさに岩から岩への(原田が名付けるところの)「死のダイビング」が展開する。その間15分を要し、「これそまさしく探検の醍醐味」なんぞと軽口をたたきあえるまでには、渡り切ってからさらに数刻を要した。
 左岸の小高い丘の上でひとまず間食をほうばっている時、突然視界に一そうの小舟の影(まさに天の助けというやつ)本能的にオーイと叫んで手を振るなんぞは、遭難者が救援隊を発見して踊り上がっているように似て、あまりサッソウとしたものではなかったと思われる。
 なにはともあれ、彼ら(舟の主)から道の正しさを聞き、やっと安心する。この時、12時40分。右岸で、1時間半もうろうろしたことになる。その間原田が小動物(動転した彼の話では、それがいかなる種類のものであるかは、判然としないが)に遭遇し、奇声を発するという一幕もあったが、全く緊張の連続、その疲労は、おびただしいものがあった。その上、ここに到っての2時間近くの遅れは、今日中の「古見」到着を、かなり絶望的なものにした。しかし、ともかく、道の正しさを確認した今となっては、ただただ前進する他はない。
 1時15分カンピレー滝上の道に達する。ザックを置いて、崖を下る。突然開ける眺望に、まずは目を見張る。その落差は、見るべきほどのものではないが、その川幅の広さといい、水の美しさと岩のなめらかさの調和といい、まさに絶景というにふさわしい。雨が幸いしてか、水量の増加が、その雄大さを倍加している。滝の落下地点から、数メートルの地点で、一見湖のごとき大河にすい込まれる様は、まさに「動」と「静」のコントラストで、心にくいばかり効果的。さらにこの滝の上流には、「ナメ滝」と称される階段状につらなる興味深い滝がある(実は、これをカンピレー滝と称するようである)。
 1時15分、さらに河岸ぞいに、道なき河原を歩む。この時も、たえず道の正否に関する不安がつきまとう。2時5分「古見へ」の表示を発見し、勇気付けられることしきり。3時ちょうどに、営林署の管轄にある山小屋に到達する。B班のために、「立大探検部31日3時着」と外壁に記入。
 この時、4人とも疲労激しく、ぼくなどは、左足の内側が全く使えす、がに股でビッコをひくという嘆かわしいありさま。多少早すぎの感はあるが、今日はここで停滞と決める。付近の木に「古見まで15K」の表示があり、明日の到着にある程度の確信を得る。疲れた体を横たえての友との語らいは、又格別に楽しく、これが、この旅の真髄かもしれないなどとほのぼのとした連帯感を覚えつつ、快い眠りをむさぼる。

 さて翌4月1日、横断最終日である。きのうは3時に停蒲と決めたせいもあって、今日は早立ちと決定。5時起床、7時に山小屋を出る。痛い足を引きずりながら、ピョンコ、ピョンコと喜劇的前進。とにかく30分に5分休憩というリズミカルな進行が、今日は15分ともたない。
 4回の休憩をへて、やっとのことで第ニの山小屋に着く。ここには、すでに先客があり、「古見まであと9Kだ」と言う。下りが大部分という心強い情報まで得て、多少気をもちなおす。ところがである。現実はどこまでもきびしく、我々には、裏目裏目と出る。下りが主とは、真赤なイツワリなんのことはない上りが大半なのである。(思うに彼らは、逆から進んできたのであるから、彼らにとっては、事実下りが主だったにちがいない。)
 上りの連続で苦しさは、まさにつのるばかり。歩き始めると、もう休みたくなる。この時又もや「高橋」の身に不安が訪れる。例のイワク付きのオンボロザックが使用半ばにして、その役割を放棄するという挙に出たのである。(すなわち、その肩ひもがぶつりと切れたのである。)高橋にとってはまさに最悪の事態。悲観論者として自他共に認める「高僑君」にとって、この老朽化したザックに対する信頼は、あまりにも楽観的なものであったといわねはならない。なにはともあれ、遅いながらもある程度のペースを維持できたのは、割に元気な原田のリーダーシップに負うところが大きかった。
 11時45分、上り下りの険しい山中をぬったあと、小川の中に、たい岩のある、格好の場所を見つけそこで昼食と決める。疲労はなはだしき機だけに、この大休止は、なによりもありがたかった。
 たっぷり休んだ後で、1時20分出発。この地点に、B班への書置きを残す。文面次のとうり「A班ガンパレ(これは、どうも疲れのため、ABを書きまちがえたものらしい)遅れはなはだし、疲労度限界に達す」これを読む彼らも、「相当まいっているらしい」と心配そうに安心?する姿。「しめた!これなら追いつけるぞ」と軽はずみにも、嬉々として飛び上っている姿(後の調査によると、全くおもしろからぬことに、この紙片は、どうやら後者の効果を上げたものらしい。)
 こののちの行程は、比較的平担な道が多く、割に好ペースで進む。ただのどのかわきには少々いらだちを覚える。ポリタンがもう1個あったらと反省されることしきり。
 3時5分、古見に着くのはあと数刻という楽観的な見地から残り少ないジュースの、ジャンケンによる独占を提案する。こんな場合、提案者は、その尊敬すべき、すはらしい発想にもかかわらずえてして不人情な裏切りに会うものである。全く不幸なことに、ぼく自身まさにその例にもれなかったのである。原田にそれを独占された時のくやしさ、さらに残りを5人で争い、又々堀ノ内に独占された時のくやしさといったらなく、心からその軽はずみを後悔したのであった。その上、さらに悪いことには、古見はもうすぐという楽観的予測は、いとも軽く、くつがえされたのである。すなわち、行けども行けども、人家の気配すらなく、おまけに道は、だんだん登り坂になるというしまつ。「道をまちがえたのではないか。」という不安は、ついに最後で、つきまとってはなれなかったのである。
 3時50分、急に青空の下に出る。薄暗い小道から突然広い空間が開けた時の喜び、あたりは、見渡す限りのパイン畑である。そのはるか彼方には、水平線が空にとけこんだごとく青くすみきった海、潮風もここちよく感じられる。さらに進むと、なにか聞きなれた音、どうもトラックの音らしい。一瞬皆の顔が明るくなる。文明人が文明に再帰した喜びと安心感。
 数分後に、我々は、かわいた、ほこりっぽい道路の上に立っていた。4時15分、ここに西表島横断行は、やっと終りをつけたのである。気のぬけたことおびただしく、ザックをほうりなげて草の上に寝ころぶ。空はどこまでも底知れぬほど青い。近くで水牛が草を食べている。あお向けた顔に、南国の太陽が痛い。実にいい気持、快い疲労感が全身にしみ渡る。

 本来ならば、この紀行文は、ここで終止符をうつべきである。しかしながら、筆者は、さらに筆を進めねばならない。筆者の目ざすリアリズムの完徹のためには、このような快い疲労感で終ってはならない。どうしても、この後の喜劇的結末をもつけ加えなければならない。
 さて、4時40分、ようやくのことで、ふらふら立ち上り、古見の中心に向って出発する。重い足をひきずってまさにふらふらの行軍、
ジュースの粉末をしゃぶり、ダ液により、のどを、うるわさんと試みるが、これは逆効果。とある農家で水を請う。実にうまい。さらにひたすらコーラを求めて進む。全く、このような僻地に来てまで、コーラを忘れられないとは、我々文明人は、何とあの厭うべきアメ帝に犯されていることか。
 5時やっとのことで古見小学校にたどりつく。もの一歩も歩けず、石段にペタンとすわりこむ。「もういやだ、もう一歩も歩けねえ」と、皆の意見が一致、ここから大原までは、トラック以外は考えられず。
 30分ほど待っと、大原方面からのトラックを発見、サトウキビを積んで再び大原へ帰るのだという。帰りに、のせてもらうことを交渉すると二つ返事でオーケー。全く土地の人は底ぬけに親切である。これで30分後には、荷台でサトウキビをかじりながら楽々と大原へ。愉快である。コーラもみかんのカンズメもおいしいこと、この上もない。
 6時、ここで珍事が勃発する。はるか後方を歩いてるはずのB班が、突然現れたのである。「刈谷!」と叫ぶ藤森の声を聞いた時には、全くギクリとした。ちょうどかくれんぼをしていて、予期せぬ時に、見つかった感じ。「してやったり」という4人の顔。この喜劇的コントラストこそ、この稿の結末たるにふさわしい。それにしても、あの太陽のまぶしかったこと、・・・・・・
1次紀行文
大熊進一
 東シナ海の中にある一つの島。遠く文明から離れた島。この島で一生を過ごす人間。そして、ここで一時を過ごす人間。こんなことを考えさせながら舟は白浜に着いた。

 3月30日、まだ薄暗いうちに物音で目がさめた。先発隊のテントの棒が紛失したらしい。外はあいにくと土砂降りである。小降りになるのをまって先発隊は我々のテントを持って、7時45分頃、白浜小学校をたった。我々は舟をチャーターして舟浮まで向かい、小学校の先生に会って、いろいろ説明を聞いた。ここはハブの名所らしく、子供達にヘビとハブを区別して教えてるという事を聞きびっくりした。
 他の話をいてからクイラ川上流に向かうため小学校の舟に乗り込んた。西表島の川は内地にある川とまるで様子が違っていた。川岸にはマングローブのジャングルがおい繁り、映画でしか見られない光景が、今、目前にあると思うと感慨無量である。浅が川上って行く途中舟をとめジャングルの中に入っていったが、岸はぬかるみ状態で、足を踏み入れるとブスブスともぐりこんでしまった。
 ここで昼食をとってから、外離島と内離島との間に舟の舵をとった。小学校の生徒が舟浮近くで釣りをしていたのでそこへ舟をむけたが、今日はあいにくと不漁のようである。ここで東京をたつ時から考えていた初泳ぎをやってやろうと思い青い海の中へ入った。海は冷たいが、体がピリッとする爽快感を味わった。ゆっくりと手足を動かすと、水の抵坑が心地良かった。3月30日に初泳ぎは記録更新である。しかし、良い事は続かないもので、舟にあがって島に向かうまでのその寒いこと、波のしぶきがかかり、風が激しくまるで弱い者をいじめるようにたたきつけた。
 やっとのことで島に着き、風をしのげる所まで誰もいない砂浜を思いっきり走っていった。そこで少し休んでから一つの足跡もない海岸線を歩き、落ちている貝をひろった。足跡を砂浜につけるが、それもつかの間、すぐ波がそれを洗い流してしまう。自然の美に足跡を残すのをまるで嫌うかの如く。海の沃精の光を浴びてこの砂浜に一歩をしるす時に、他の足跡があるのを恐れるように、すばらしい眺めである。外離島と内離島との間に細長く砂浜が続き、その砂浜をところどころたち切って波が砂を洗っている。そして海の色は千差万別と言っていいほどそれぞれの色を楽しませてくれる。こんな海を見つめながら夜を待ち、星の数をかぞえながら潮騒を子守歌にして寝てみたいなあ・・・・・・。
 珊瑚のきれいな海の上を舟は走り、白浜には4時前についた。探検部の最初の合宿を祝してコンパをやる事になり、ウイスキーとコーラで乾杯をした。マングロープの木のほり魚など初めて見るものや、自然の美しさにみんな興奮したのか宴は盛り上がり歌声はいつまでも続いた。夜の闇がそっと小学校をとりかこんだ。

 3月31日、目がさめたらまた雨が降っていた。なんてついていないんだろう。再び予定を変更して、昼頃までここに滞在し昼食をとってから出発することになった。朝食を食べてホッーとしていると、小学校の生徒がやってきて、赤いローソクを見ながら『ローソクに赤いのがあるの』とびっくりしていた。
 ぼんやりしていても仕方がないので、仲良川上流を上っていくことにした。現在潮がどんどんひいているらしく、楽に川岸を歩ける。この川もマングロープが繁り、木のぼり魚もいた。木のほり魚をつかまえてやろうと思い、悪戦苦闘の末、3匹つかまえることができた。ここの潮の引き方はすごいもので小舟を通れなくなるように引いてしまう。
 小雨の中を2時頃出発した。ザックを軽くするため、お世話になった小学校の先生に米やラーメンなどを置いていく事にした。雨のため道がぬかるんでいたり、土砂崩れのため祖納での道は通れないという話を聞いて、仕方なく舟で祖納でいく事にしたが、潮が満ちるまで通信社の人に山越えの道についていろいろ聞き、途中に小屋がある事なども知った。
 3時頃舟に乗り、祖納に向かった。祖納にはヤシの木や石を積み重ねて作った石垣なども見られ、八重山の面影を残している村である。歩いていると三味線のつびきと民謡が聞こえてきた。またよくよく見るとここいらへんの道は全部珊瑚である。その珊瑚の道をダンプが走っている。島の発展のためとはいえ、アンパランスだけが気にかかった。
 山道を登っているるとザックが肩にくい込み、非常に重い。30キロの重みが相当にこたえるが、今からこれでは先が思いやられるなあ。山を降りたところで少し休んだがシャツはびっしょりになっていた。今日は稲葉まで歩くことになっている。途中家が何軒かある所を通ったが、稲葉はまだ先だろうという事で先に進んだ。途中水田がみられ水牛もいた。道は雨のためぬかるみ、丸木橋は非常に渡りにくい。笹のような草がいっぱい繁っているところまできたが、そこでいくつにも道が分かれているので道を捜したがどうも通れそうな道がなくひき返す事になった。道を捜している時、うす暗い川の支流に出会ったがワニがでてきても不思議でないような川である。その家が何軒かある所が稲葉であるという事を聞き、今夜はここに泊ることにした。また道がわからないので明日の朝早く舟で川を上ることになった。
 井戸の水をくみに行ったらそこにホットケーキの箱などが落ちていた。先輩達もきっとここに泊まったのだろう。7時頃までは明るいが、7時をまわると急に夜がやってくる。本
当の夜が恐怖心を起させる夜が、あたりを黒い布でおおい静かな沈黙が支配する。時々、鳥の声がする。彼らは夜を待ちこがれて鳴いているのだろうか。それとも、夜を恐れて鳴いているのだろうか。

 4月1日、朝はまだ暗いうちに起きる。なんとなく無気味な気持をおこさせる。7時頃おじいさんがやってきて舟で川を上ることになったが、その舟の小さいこと、荷物と我々4人が乗ると身動きしただけで水が入ってくる状態である。一度乗りこんだが最後、身動きせずにじっとして舟に乗っていなければならない。
 浦内川は岸近くまで木がおい繁りまるでアフリカの川を思いおこさせる。1キロ進むのに何時間もかかりそうなぐらい木がおおいかぶさっている。川水はどんよりしていて、川とは思えないほど流れはない。ところどころにツツジのような花が見慣れぬ花が咲いてる。いったい誰にその美しさをみせようとしているのたろうか。こんな山の中でひっそり咲いている花はそれだけでたとえようのない美しさを持っていた。舟はゆっくりと進む。昨日までぐずついていた天気も今日はなんとなく晴れそうである。山の朝は夜と違い輝きに満ちていた。緑の美しさ、心までも洗い流してくれそうな緑の輝き、夜にはその緑が恐しいほどに圧迫していたが、朝はなんとやさしくほほえんでいることだろうか。
 舟は1時間ほどして、ぐんかん岩と呼ばれている所に着いた。ここで降りた時には足がしびれて、どうしようもなかった。少し休んでいると雲の間から太陽がのぞいた。キラッと光った瞬間、恐ろしい物を見た気がした。何日ぶりだろう。太陽を見たのは。太陽の光はこんなにもまぶしかったのだろうか。原始人達は太陽を神とあがめていたが、今の輝きは神にもさるきらめきだった。
 サッーこれから古見に向って山越えだ。舟に別れを告げて古見への第一歩を踏んだ。西表の山の中は物妻いジャングルである。人間の二倍も三倍もあるようなシダがあたりをおおっている。まるでガリバーと反対のような気がする。小さな丸木橋を渡り、山道を登りただ歩くだけである。ここの山は登りつめたら後は下りと言うのではなく、登ったと思えばすぐ下り、また登っては下るという非常に嫌な山である。荷物も肩にくいこんできて、だんだん重さを増していくような気がする。
 1時間ばかり歩いたところで、岩が幾重にも重なっているところを川が流れている場所についた。水がとても冷たい。10分ばかり休んで再び山道へ入った。
 少し歩くとまた川に出たが道がわからなくなり、道捜しのためザックをおろした。ずいぶん搜したがわからず、仕方なく大きな岩に沿って川の中を歩いて行くと、なんと川の回こうに細々と道が山に上っているのを見つけた。いけどもいけども小さな道がひとつ。まわりはジャングル。自分達は今どこにいるのかもまるで見当がつかない。
 10時少し前、第一の山小屋に着いた。内に入るとロウソクや食べ物の残りなどが置いてある。そして戸には先発隊が昨日の3時にここに着いたことが記してある。昨日はここに泊り、今日の朝ここをたったのであろう。ということは先発隊との差はそうない事になる。
 また歩き始めた。だんだん疲れがでてきたのか、ザックが非常に重い。しかし、ザックはぐいぐい肩にのしかかってくる。その上腹がへってきた。こうなるともうどうしようもない。疲れた、重い、腹へった、が三重奏となり僕を苦しめる。お昼は第二の小屋でとる予定だが、その遠い事遠い事。山を登っておりていくと川が見えるので、小屋に看くのかなと思うと意地悪くまた山に登りだす。なんと嫌な道だとカッカッと頭に来て、爆発寸前に小屋が見えた。
 川を飛び越え、小屋にかけあがり、リュックをおろし、キャラバンをぬぎ飯合を持って裸足で川の中へ入り、石の上に腰をおろしてやっと一息ついた。飯合の中のわずかな御飯とカンヅメとでささやかな昼食をとった。川の水は冷たく、疲れた足をいやしてくれた。
 ここから古見まで約9キロ、祖納からここまでは17キロ、5時頃でには古見へつけるだろうと言う予定をたてて1時30分過ぎに出発した。先発隊は今頃どこを歩いているのだろうか。山の中はあいも変わらず木ばかりである。見通しのきいた場所は川が一回見えたたけである。景色が全然見えずに歩くのは非常に疲れる。まるで同じところをぐるぐるまわっているような気がする。もうあと少しなのだという気持ちと、いやまだ遠いんだという気持ちが交互に支配しながら歩いていく。
 途中非常にきつい山道があり、ところどころにチョコレートの紙などが落ちている。畜生、チョコレートが食べたいな、水が飲みたいぞ。このきつい山道を登る時は足がガクガクして、登りつめた時は物を言うのもだるいような惓怠感を感じた。又、登ったり下ったりである。やっと登ったのにすぐ下りになり、又、登る。なんて事だ。いいかげんにしてくれ。これからは山は登りの時は登りだけ、下りの時は下りだけという法律でも作ってやりたいような気持ちである。またかなり歩いた。もう惰性で歩いているようなものである。唯、足がでるだけで歩いているという表現はあたらないかもしれない。先発隊の手紙が見つかった。『予定ははなはだしく遅れ、疲労困憊し限界に達す。』、我々は予定の5時近くになってもまだ山の中である。
 その時、山の彼方に海が見えた。しかも波の音でが耳をくすぐっている。万歳!もう一息だ。しかしその一息がなかなか大変である。しかもまた山を登り始めたのである。こんな事でいいのかな。もしかすると別の道に入ってしまったのではないかなと言う疑惑が頭をかすめ始めた。こうなったらもうだめである。疑惑が疑惑を招き、足の運びもおっくうになってきた。
 一瞬目を疑った。目の前が開けてパイナップル畑が目の中に飛び込んできたのである。着いた着いたぞ。朝7時稲葉を出発してもう6時近くである。
 途中パイナップルをひとつ取ってかじってみたが全然甘みがなかった。チェッと思いながら捨てると、なんと同じ所にパイナップルが捨ててあるではないか。きっと先発隊の誰かが同じ事をしたのであろう。あまりかしこい事はやらないなと思いながら歩いていくと古見の町に着いた。ジュースを飲んで一休みしてから大原まで車に乗っけてもらおうと思い小学校に行くと、なんとそこに先発隊の連中がいるではないか。サトウキビが一杯積まれている車に一緒に乗り、積もり積もった話をして大原に向かった。
 今日は大原小学校で疲れをとる事になった。夜、窓からもれる月の光がまぶしく、疲れているのになかなか寝つかれない。月を見るのも久し振りだなあ。月の光がこんなに明るいものとは今まで気がつかなかった。もうみんな寝てしまったようである。疲れているんだろう。稲葉の時と違い、今日の夜はとてもやさしい感じがする。月の女神が、僕らの疲れをのやしてくれるために、静かなそして穏やかな夜をプレゼントしてくれたのだろうか。だんだん月の光が僕の目をおおい、そっとやすらかな眠りへとさそってくれた。

 4月2日、月のまぶしさに変わり、太陽の輝きが目を誘惑した。眠い目をこすりしていると小学校の児童が1人、2人と校庭に集ってきた。今日はこの小学校をやめる先生の送別式があるとの事である。1人と多数の別離、1人と1人との別離、一生のうちには何度か別離があるだろう。そしてまた人は振り返り別離に涙をためるだろう。しかし、涙を流すのはよそう。過去の為に涙を流すよりは未来にきっとすはらしい事が待っているだろう。その日の為に涙をためよう。そして腕一杯に
幸福を抱きしめよう。そして涙を流そう。うるんだ目に太陽の光がきらめく日まで涙をためよう。
 小学校を出て公民館に移り、昨日の疲れをとるために海で充分に休養をとることにした。浜辺に出てサンオイルを体に塗り、太陽を一杯に浴びた。段々、体がほてってくる。暑い、熱いと言っても言い過ぎではなくらいである。きっと30度は越えているだろう。紫外線が強く、みるみるうちに体がやけていく様な気がする。海はみるまに引いていき、はるか彼方まで浜があらわれている。暑くてたまらず水平線に向かって歩き出した。遠い遠い水平線めがけて貝を思いっきり投げてみた。高く上がり一瞬太陽の中にかくれた。貝は太陽に吸い込まれ、このまま大宇宙に向かってずっと旅をするのではないかと思わせるほどになって、ようやく太陽の手を離れて貝が青空に飛び出してきた。スーと円弧を描いて水平線の前に落ちた。あの貝はもう二度と人の手に触れる事もないだろう。たった一度の冒険を犯しただけで海の気分のなすがままにまかせ、身をゆだねるしかないのである。
 西表島唯一の食堂が大富にあると聞いて、そこまで行ってみたが誰もいない。しばらくして店の人がやって来たが船が来ないから何もないと言う。ようやく目玉焼を作ってもらった。久し振の目玉焼はなかなかうまかった。45セントを払い、パイナップル工場へと足を向けた。少しぐらい食べさせてもらえるだろうと言い甘い見通しをたてたが、どうもこの工場へは僕らと同じ人種がよくやってくるらしくて歓迎を受けざる客であった。仕方なく公民館にもどると公民館のまわりは子供達の声で一杯だった。夕食を食べてからパパイヤを取りに行った。取りに行ったというよりは無断で持ってきたと言うべきである。ひとつばかりパパイヤを取り、食べてみたが変なにおいがしてあまりうまくなかった。
 長いようで短い一日が過ぎ、西表最後の夜を迎えた。昼間、体を焼いたので痛くて仕方がない。シュラーフにもぐり込むのもやっとである。明日は昼までには石垣島に着く予定である。西表での初めての経験をひとつひとつ思い出しながら深い眠りへとさそわれていった。西表島での一時がもうすぐ終わろうとしている。

〔参加者〕
藤森義男
刈谷政則
原田裕介
八木伸太郎
大熊進一
堀之内芳久
高橋敏夫
中村誠
2次川下り
江口秀俊
 洞穴探検を主流として活動してきた我部に於いて、この西表島での川下り計画が提起されたのは創立以来まだ日の浅い探検部にあって、より幅広い活動を目指していた我部にひとつの転機の現われであろう。
 この計画は約4ヶ月の計画期間を経て実施したものであるが、我々4名、可能な限りの安全対策、机上探検は行ったつもりである。この計画は当初、単なる川下りとしての案が提起されたのであるが、参加メンパーの度重なるミーティングから、川下りを一歩進めて、西表島の東部を流れる仲間川を逆上り、島中央の原生林を踏破し、さらに浦内川を下り島の西部に到るという横断計画が煮つまってきたのである。しかしながら、この計画の目的地を西表島に決定したには、以前に探検活動を行った地であり、ある程度の状況を把握しており、我部にとって最初の川下りを実施するにあたり、この事は計画により実現性を増した。この度のゴムボートを使用して横断そして原生林の踏破は単なる川下りに終わるものでなく、広範囲な活動性を持ち、パイオニア的活動を目指す我々にとり、まさにふさわしい土地としてこの西表島が決定されたのである。
 このように我々4名は絶えず様々な角度から検討を続けたが、当面の問題としてゴムボートの資金面で頭を悩ますことになったが、この問題はスポーツ用品店へ数回足を違ぶことで、レジャー用ではあるが6人乗りのゴムボートを借り受けることで解決が着き、我々の計画は大幅に進展していった。
 これら金銭的諸問題と並行して、安全、健康面での対策も考えねばならなかった。第一に水難事故に対しては水泳のトレーニングを行なうとともに、当然ではあるが全員ライフジャケットを着用することでこの対策とした。次にハブの対策が重要な問題となったが、特に原生林を歩く我々にとって、この危険性は多分にあり、これにやられたら、人命にもかかわる事態となるので予防接種をもって対策となしたが、これも完全なものではないらしく、この問題が最後まで心配事として残った。
 着々と計画も進行し、最後に多摩川での試行により大まかなゴムボートの速度を把握するとともに最終的な計画書の決定をし出発の日を待ち望むばかりとなった。
 以上のように我々は計画遂行のため、様々な角度からの検討を加え、可能な限の安全対策、訓練を行なってきたが、これらはまがりなりにも「探検」という言葉を掲げて活動する以上、我々は単なる冒険的行為のみに走るのではなく、目的遂行の一過程として時には自ら進んでいわゆる冒険的行為をも行なうであろう。しかしこのような場合に直面した時にこそ、事前の計画書作成段階における様々な検討が重要な意味を持ってくるのであり、これを基盤として、敢えて冒険的行為を行なう場合も生じるし、また断念する場合も有り得るだろう。綿密な計画の必要は以上のように言うでもないが、実際の活動段階で多少の変更は余儀なくされるものであり、今回も同様の事態が生じたが、その点も充分に考慮に入れたいものである。

 さて、計画書も出来上、4月6日我々は鉄道、船の約5日間の旅を終え、ようやく西表島に到着した。道中の悪天候による時化、慣れぬ船旅の為に多少の疲労はあったが、南国の太陽、海、島の美しさに疲れもふっ飛び、長い船旅の末やっと目的地についた喜びで一杯であった。
 西表島東部の村、大原に到着したのがタ方近くであり、直ぐさま翌日の出発に備え仲間川、浦内川の状況把握のヒアリングを行ない、その際幸いにも営林署の人に出会い、当日は御好意に甘え仲間川から少し離れた所にあるお宅に宿泊させて頂くことになった。翌日の出発はこのヒアリングの結果、早朝少し上流にある橋の袂から出発することに決定し、翌日に備え、幾分早く寝袋に入ったが、暫くすると隣室から聞こえてくる営林署の人達の話が気に掛り、眠れないまま話に聞き入った。ところでこの話は出発以前から常々気に掛けていたハブのことで、話が様々な被害の話題に進むにつれて、出発を翌日に控えた我々の不安は募るばかりであった。

 このようにして西表島での第一日は過ぎ去り、翌朝3時50分に起床し、朝食をとり装備の点検を終え、橋の袂で出発の準備に掛ったが、ゴムボートの故障で予定より遅れ、6時に朝靄を突いて上流目指し仲間川に乗り出した。幸いにもボートは折りからの満潮に乗り我々の予想以上のスピードで進み、幸先のよいスタートであった。この仲間川は西表島においてもマングローブの生育している点では一番で、景観はあたかも小アマゾンを連想させる。
 我々は去年、那覇で手に入れた地図
を頼りに進んでいったが、この5万分の1の地図はあまり頼りにはならなかった。予想以上の曲りを経て、出発から約5時間後に予定の上陸地点に到着し、昼食をとった後、時間が少し予定より早かったので、さらに上流へと向ったが不運にもスコールに出会い、上流の探検を諦め上陸地点まで一応引き返し、検討した結果、浦内川源の小屋へ向うこととし、ジャングルの中に歩き始めた。しかしながら折りからのスコールと地図の不明確さも手伝って、何度か道を迷いながら、約7時間歩き続けたが目的の小屋に到着できず、当日は途中の渓流の脇でビバークすることに決定し、食事も早々に終え眠りについたが真夜中2度もイノシシらしきものの気配を感じ慌てふためいた次第である。

 翌日は5時起床とともに急いで食事を終え小屋を目指し出発したが、約40分進んだところで目的の小屋に到着した。そこからいよいよ浦内川の河口目指して下る訳であるが、前日からのスコールで水量も増す為、小屋で暫く様子を見守りながら今後の川下りを検討した末、雨の小降りになる時を見計らい10時頃に浦内川上流にボートを乗り出した。
 小雨の中を何度も水に入りながら進んでいったが、上流の為岩場が多く困難を窮めたが、連悪くボートの各所に穴があき進行不可能な状態になった。しかたなく我々は全員ずぶ濡れになりながら再び小屋に引き返し、着換えを終え、続行不可能となったこの時点で今後の行動をどうするかを決定せねはならなかった。衣服を乾かしながら久しく話し合った結果、翌日は古見村にぬけることになり、当日は反省をしつつ半日を過ごした。
 翌日は昨日までと打って変わって天候に恵まれ、約6時間かかって到着した。古見村で休息した後、通りかかったトラックに使乗させて頂き再び大原に帰り、ここで我々の実質的行動は全て終了した。

 この計画は実質的には短期間であり、失敗に終ったが、質的にはかなり中身の濃いものであった。しかしもっとも残念なことは記録写真、8ミリ等が水に濡れ、充分な記録が残せなかったことである。この計画を通じて反省すべき点は数多く残ったが、また同時に得る所も多分にあったと思う。これらの点に立ってこの活動を振り返った時、道中及び活動中の様々な体験が美しい西表島の自然と伴に鮮明に思い起こされる。

〔参加者〕
原田裕介(リーダー)
ーツ木俊通
春日屋誠
江口秀俊
洞窟編Ⅰ 沖永良部
ーツ木俊通・江口秀俊
概要
 奄美諸島南部の島で、鹿児島県大島郡和泊町と知名町からなる。面積97平方キロメートル。人ロ25506人(1959年)。大山(245m)を最高とする低い隆起サンゴ礁であるが、裾礁が発達しているため良港がない。年平均気温22度Cでソテツ・アダンが茂り、サトウキビ・バナナ・パイナップル等を栽培している。毎年台風による災害が多く、民家は石垣や防風林を持ち、鹿児島から定期船でまる1日の距離にある。また石灰台地であるために非常に鍾乳洞が多く、一部観光面にも利用されている。また、この鍾乳洞は生民が水を得る重要なよりどころとなっている。この島は奄美諸島の中では与論島と共に猛毒の蛇、ハブのいない島として知られるが、それは他の島々が古生層を中心とする山が多いのに対し、隆起サンゴ礁の低平な台地で水源に乏しく乾しやすいことが原因であると思われる。

行動日程
7月24日
東京出発。

7月25日
秋吉台において、ケイビング大会参加。

7月31日
沖永良部島→知多着。

8月 1日(晴)
南栄糖業工場内にBCを置く。屋子母部落集辺にてフィールドワークの準備訓練を開始。

8月 2日(晴)
島の中央にある大山の中腹のドリーネの中にある2つの洞穴に入洞。500mと100mほどであり二次生成物が多くまだ生成期にある洞穴を感じさせる。この2つは昇龍洞の下洞である。午後より昇龍洞(観光洞)に入洞。

8月 3日(晴)
我々の洞穴調査の地域である上城地区へ。洞ロを3つ見つける。洞ロの一番大きい洞穴に入洞中に7月2日付の「こうもり会」入洞カードあり。洞長300m、水量が多く水温20度C。

8月 4日(晴)
地元の人の案内で水蓮洞に入洞、ゴムボートがない為途中で打切り、帰り風葬跡を見る。

8月 5日(晴)
合宿に入って初めての休養日。

8月 6日(晴)
上城地区で更に10ヶ所の洞口を発見、入洞。すべて洞ロより10m以内で二次生成物は全然みられなかった。

8月 7日(晴)
上城地区で4ヶ所の洞口を発見入洞したが、すべて10m程度でここもニ次生成物はみられなかった。午後に隊員の一部帰京。

8月 8日(晴)
永良部洞にて測量訓練、午後より台風のため風雨が強まる。平板測量で永良部洞中間点まで測量。

8月 9日(雨)
永良部洞にて前日の測量を続行しようとしたが、増水のため入洞不可能。

8月10日(晴)
上城地区の竪穴を測量、午後8月3日に入洞した同地域で最大と思われる洞穴の測量完了、測量技術が未熟なため正確な測量はできまいが・・・・。

8月11日(晴)
帰京準備。

8月12日(晴)
知名を出港。

1969年度・夏・沖永良部洞穴群調査
〔参加者〕
CL 八木伸太郎
SL 刈谷政則
   江口秀俊
   貞広幹雄
   ーツ木俊通
   米山啓子
   松浦恵子

行動報告
 秋吉台でのケイビング大会も含めて、約3週間のうち汚れた、それでいて思出多き洞穴探検であった。
 私にとって洞穴とは全く未知の世界であり、それ故、不安と期待とが入り混ざっていた。先ず私がこの島で最初に感じたこと、それは今でもはっきりと思い出すことのできるあの素晴しい海と空の南国の色である。この美しい島で毎日洞穴に入って2週間を過すのは私には少々苦痛であったが、一度あの南国の太陽が降りそそぐ地上から洞穴という自然のクーラーの中へ入ると、美しい鍾乳石、水の音、それらが私にある一種独特な感動を与えてくれた。
 私にとって洞穴とは、以前は唯、暗い穴ぐらというイメージしか与えなかったがこの暗闇の中で自然が絶えず活動し続け、数万年もの長い期間をかけ、この島の地中に神秘的な暗黒の世界を創り上げ、やがてこの世界を消減させてゆく偉大な自然の力を知り、そして今回ごく一部にでも接し得たことは私には感動的であった。この合宿が探検部の合宿として充分な成果を上げたとは思わないが、以後の洞穴探検にとってかなりの実践的要素を得たと思う。
 私にとっては最初の合宿であり、多少の不安はあったがなんとかやってゆけた。だが、今考えてみて、この合宿中決っして全てのことに全力で向ってはいなかったと思う。しかしながら、この合宿、あの昼間の海、夜の星と共にこれから先、思い出すことがしばしばあることと思っている。
洞穴編Ⅱ 草間台、小袖・倉沢、青岩
ーツ木俊通
草間台洞穴
 1969年12月31日より翌年の1月5日まで岡山県の草間台洞穴群の概略をつかむと共に隊員の竪穴訓練を目的として行なわれた。

<活動>
1月 1日(曇)
現地にての情報収集と共に羅生門の穴の調査を行なう。

1月 2日(曇)
前日に引続き羅生門の穴に於てザイル訓練・測量訓練等を行う。

1月 3日(曇のち雪)
二ツ木の穴にて完全な測量をして、下級生に測量技術を教える。

1月 4日(雪)
昨日からの雪が積りはじめてはいるが、期間が短かいため活動は中止せず秘坂鍾乳洞に入洞してみる。愛媛大学の資料より洞内の概要は把握していたが水流のない冬期の調査はまたしていないようで、第一洞(800m)より先はかなりの距離があるもようであったが、時間と装備が不足して途中で引き返さねばならない点がとても残念である。今後の冬期における秘坂鍾乳洞の冬期の調査を期待したい。

 岡山県のカルスト台地のうち今回初めての試みと阿哲台地の草間台をベースとして予備調査を行う。カルスト台地の高さは平均400mほどであるが民家が非常に多く散在している。白備線井倉駅より満奇堂行きパスで40分、羅生門口下車そこより1km程にある輝雲寺にそのペースをおいて調査を行う。

<羅生門の穴>
 やや下り状の横穴で全長400m程である。洞ロより70mで約2mの竪穴となっており、ここからやや進んだ部分にリムストーンが発達している。180m程で第1洞は終り、体がやっと通り抜けられる所を出ると第二洞のホールに出る。このホールからやや支洞が伸びているが本洞には水流がありスラクタイトやスタラグマイトがかなり良く発達している。

<二ツ木の穴>
 全長は約550mほどで中は大きく二つに分かれている。ここにはフローストーンなどが多少見られる程度で二次生成物の発達はあまり良くない。水流は顕著な蛇行を示している。

<秘坂鍾乳洞>
 入口を入ると大きなホールになり三方に分かれるかなり大きな洞穴で第一洞は800m程あり、リムストーンやケイブパール、ケイブフラワー等が見られる。奥に「星の穴」と言われる大きな穴が天井に開口している。ここから100m程進んだ所で腹這いにならなければ進めなくなるが、そこを通り抜けると再び大きな穴が続いている。水流はないが河岸段丘的に亀裂が入っている。300
m程で約20mの竪穴にぶつかる。更に、奥に続いている様子であるが時問の関係でそこから引き返す。
小袖・倉沢
<期間>
1970年1月23日~1月24日

<目的:洞穴訓練>
この合宿は、洞穴未経験者のために組まれたものである。経験者は八木と佐藤の2名しかいない。女子が3名いたためか、大変になごやかな雰囲気でおこなわれた。

<行動記録>
1月23日
  1:00 大学を出発。
  3:30 倉沢鐘乳洞に到着。直ちにテントを張る。
  4:00 全員入洞。
  5:00 出洞。
  6:00 食事。食事後、キャンプファイヤをかこんで酒を飲みながら歌う。
  9:00 消灯。
1月24日
  7:00 起床。
  8:00 食事。
  8:30 アップザイレンの訓練。
青岩鍾乳洞
 1969年の10月末、1970年の6月初めの2回にわたる洞穴の訓練を兼ねた短期間なものであった。洞穴の位置は氷川からパスで約1時間、歩いて約2時間半の三条の湯から、さらに40分程にある。この洞穴は管理洞であり、入るにはあらかじめ三条の湯の小屋に連絡しておく必要がある。洞穴としてはあまり大規模なものではないが関東周辺のものに比べても、かなり美しいらしい。洞口から約半分の行程は水もなく楽に進めるが、途中1ヶ所「迷の十字路」と呼ばれる付近に少々注意を要する。洞口から約半分を過ぎたあたりに大きなホールがあり、そこから水流に沿って進むことになるので水にぬれることは覚悟せねばならない。しかしこの付近から少しずつ鍾乳洞らしい光景が見られる。水流に沿ってしばらく進んで行くと約10m程の滝があり、そこで一応行き止りになっているが、滝を登りさらに20m程進めるらしい。
 我々がおこなったのは、いずれも短期間であったので測図は作っていないが、水量が多い上に低温ときてるので測図をするとなると大変であろう。
洞穴編Ⅲ 安家
概要・地図
佐藤継郎
 上野から列車に乗り9時間余りで、岩手県の県庁所在地である盛岡に到着する。ここで山田線に乗り換え、さらに茂市で岩泉線と乗り継ぎ4時間程で岩泉に到着する。ここ岩泉では、宇霊羅山が四季それぞれに装いをこらして、訪づれる者を迎えてくれる。この岩泉には岩泉町がある。駅からパスで10分の所に、龍泉洞がある。龍泉洞は観光化されてはいるが、大地底湖がありまだ多くの謎を秘めている。さらにパスに乗り、石峠を越え50分で安家元村に到着する。岩泉から安家までは、バスの走る県道の左右で山の様相は対称的となっている。県道の東側は山は険しく男性的であるのに対して、西側はなだらかでありどちらかというと女性的であると言える。安家川が安家の村を東西方向に横切っている。安家川の両岸に、元村の家並がならんでいて、東北の山村の一典型である。安家に初めて来る人間は、バスで最後のカーブを曲ると、まずだれしも活気のないさびしい村だと感じるであろう。しかしここに住んでいる人達はとても親切である。我々が初めて訪づれた時も様々な好意を受けた。ここから安家川に沿って、西へ向うと川口地区であり、さらに北へ向うと年々地区である。この両地区ともバスは通っていない。安家からさらに大月峠を越え北へ向うと、そこはもう久慈市である。しかし市とは言うもの、市の一番はずれにあり、市の一部であるという感じは全く受けない。
 安家には、全長日本第一位の安家洞、第ニ位の氷渡洞を始めとして多くの洞穴がある。しかしながら、我々の前にその姿を現わすこともなく、静かに眠っている洞穴がまだ多いのではないだろうか。(地図、次頁へ)
第一次調査
佐藤継郎
 この合宿は、69年夏のケイビング大会と『沖之長良部島』・70年冬の岡山県『草間台』等と行なわれてきた我部のケイビングの新たなる展開を目指したものである。その目的は、安家の洞穴の概略を把握、写真撮影およびこれまで行なえなかった竪穴を降下することである。合宿では初期の目的を一応達成できたと思う。

<出発まで>
 韓国遠征・西表島とパーティーが結成されていく中で、それに取り残されたようになってしまった刈谷(経-3)。大熊(経-2)・貞広(経-1)・佐藤(経-1)がメンバーとなり、大熊をリーダーとして合宿地の選定が行なわれた。岩手県下閉伊郡岩泉町でケイビングを行なうことに決定した。初めて竪穴降下を目的に加えたためにハシゴを作成することになった。時間に余裕がないこと、そしてワイヤバシゴの作成方法がわからないために、繩バシゴを作成することになった。いろいろな案が出されたが、結局6mmのザイルとアブミ用のステップで作成することになった。これは非常に軽量であることと、簡単に作成できることが
氷渡洞(坪沢穴) 松林 かさどり穴 音松洞 銭吹穴 長内沢 元村 安家洞
至久慈市 山根洞 岩井窟 大月峠 風穴 桃ノ木洞 年々 相良向いの穴 川口
大穴 喜惣次穴 高須賀 追子沢 石峠 無名洞 無名洞 竜泉洞 岩泉町 赤穴
至青森 盛岡 至上野 久慈 安家元村 岩泉 浅内 宮古
安家概略図

特長であるが、一見するとはなはだ心もとない。

<行動記録>
3月31日
23時30分発の十和田7号で上野を出発。

4月 1日
14時20分、岩泉着。町役場へ行き、洞穴の資料をもらう。龍泉洞わきにテントを張る。龍泉洞に金を払って見学する。夜はあまりにも寒さが厳しすぎてよく眠れなかった。

4月 2日
宇霊羅山の中腹にある五郎兵衛の穴に入洞しようとして探したが、みつけることができずに資料にある無名洞と思われる小さな洞穴に入っただけだった。昼食は山頂の見晴しのよい所でとった。下山中にカモシカに出会ったり、落葉のかなり積っている所では「枯葉スキー」と称して滑っておりたりした。夜は前夜でこりたので、持ってきている衣類をほとんどきこんだが、まだ寒かった。

4月 3日
赤穴へ向う。洞ロはすぐ見つけられたが、それは頂上付近のきりたった岩壁にぽっかりと開口しているのである。道は途中までしかなく、岩にへばりつてやっとたどりついた。危険この上もなかった。ニ次生成物が割合発達していて、岩泉に来て初めて洞穴らしい洞穴に入った気分だった。夜中に地震があった。大熊だけが気がついて、「なんだこれは!」と叫んだのに、だれからも返事がなかったので何も起らなかったのかと思ったそうである。テント生活だけに、地面が盛り上ってくる感じで、さぞかし驚ろいたことだろう。

4月 4日
役場で聞いたドリーネを発見すべく出発する。しかし、その結果はと言えば20km近く歩いたのみだった。歩き終った時に食べたリンゴのなんとうまかったことか。

4月 5日
龍泉洞前を引き払いバスで安家へ。寒いテント生活はこりているのでなんとかしようと、いろいろ交渉してやっと大崎新一郎さん方の牛小屋の2階を借りることができた。夜露をしのげることを思えばぜいたくを言えない。大新のおやじさんありがとう。近くに竪穴があることを聞いたので、今合宿のメインエベントとばかりに、この日のために作った繩バシゴをかついで、いさんで出発する。洞口から石を投けこんでみても、深さの見当がつかない。まず佐藤がハシゴを降りて行く。しかし、洞ロより10m程にあるテラスで、ハシゴが洞底まで届いていないとわかると、こわくなって必死の形相で登ってくる。全員検討の結果、最初の竪穴で底まで降りないというのは、あまりにも残念ということになり、アップザイレンでとにかく洞底におりて、登る時はハシゴの所まで残っている人間で引張り上げることに決定した。今にして思えばなんと危険なことをしたのであるか。とにかく初めての竪穴降下は成功した。昼の緊張と疲れのためか、ワラのべッドに入るとすぐに眠ってしまった。

4月 6日
喜惣次穴へ向う。資料を見ながら探すがいっこうにみつからない。資料の「尻高川との標高差90m」ということから、追子沢の入口から直登してみるが山頂付近においても探せども探せども見つからない。全く洞穴というのは、もぐることよりもその入口の発見がはるかにむずかしい。

4月 7日
大穴に入る。この洞穴はバスに乗ってても洞口が見える。以前に土器が出たそうである。洞内にはグアノ、コーモリがみられた。大穴に入った後、昨日1日かけても見つけられなかった喜惣次穴へ向う。大新さんに聞くとすぐに位置を教えてくれた。自分達がわかったつもりでいても、やはり聞いておくべきだった。ここのフローストンは規模が大きくて美しい。刈谷がストロボを紛失した。

4月 8日
本日は休息日の予定であったが、紛失したストロボを探しに行くことになった。探し始めて程なく見つけた時の刈谷のうれしそうな顔といったらなかった。

4月 9日
音松堂へ。この洞ロは安家で一番狭いものと思われる。なにしろ我部で軽量を誇っている刈谷でさえ出るのに苦労した程である。そして最重量の佐藤は入洞をあきらめた。

4月10日
今日は元村から遠く離れている相良向いの穴へ向う。歩のて90分程である。橋のたもとにいた人に洞の位置を聞いて登り始めたが、我々が登るのをみててくれて違った方向へ向うと、下からどなってくれて方向を指示してくれた。その親切はとてもうれしかった。洞内には熊の爪あとが残っているし、それに熊の寝床らしきものがあってびっくりした。

4月11日
5時半起床。6時出発。4人とも眠たそうな顏をしながらとぼとぼ歩く。8時半に桃の木洞に到着する。やっと飯にありつける。この洞穴は安家へきて一番長い洞穴だ。とにかく最奥部まで行こうということで、奥へ奥へと進んだ。本洞をざっとみただけだったが、千mを越える洞穴はとにかく疲れるものだなあというのが実感だった。前日は帰りにトラックに乗せてもらったので、今日もトラックでと思ったが、通らなかったのでベースまでとぼとぼ歩いて帰る。

4月12日
古銭が出たという銭吹き穴に、あわよくばという期待をいだいて向う。洞ロはばかでかい。氷柱が林立しており、ちょっとした景観である。午後かさどり穴へ向う。沢を入ってゆくのだが分岐点を間違えてしまったので、みつけることができない。あきらめて帰る途中に大きな露岩がみえたので、もしやと思い行ってみるとやっぱりあった。洞内には、まるでアリ地獄のような所がある。入って行く時はよいが、いざ帰ろうとする時、傾斜しているところへもってきて、洞床が砂なのである。一人ではとても登れない。どうしようもなくて4人が腹ばいになり、手と手、手と足というふうに結がって少しずつ登ってやっと脱出することができた。本当にアリ地獄のような所である。

4月13日
今日はすべての日程を消化していよいよ帰る日である。いざ帰るとなると、なごりおしいような早く東京に帰りたいような複雑な心境である。バスに乗りしはらくすると、雪がふってきた。

日程:1970年3月31日~4月13日
入洞総本数:10本

〔参加者〕
刈谷政則
大熊進一
貞広幹雄
佐藤継郎
第ニ次調査
江口秀俊
 今合宿は春の一次調査に続き、7月20日より8月2日まで安家、岩泉地区で行なったものである。振り返って、多少の問題点は幾つか残ったが、初期の最大の目的としていた洞穴の基礎技術の修得という点に関しては、ほぼ達成したと思われる。とりわけ坪沢穴(74m)の調査と共に、偶然であったが風穴の支洞の発見は、技術の未熟な我々にとっては喜ばしい成果だと考えている。この成果により今後、整った装備さえあれば、ほぼどのようなたて穴でもこなせる技術と自信を身につけることができたと考える。またこの合宿での基礎技術の修得により、今後の本格的洞穴探検をも可能にすることができると思う。

<行動記録>
7月21日 快晴のち一時雨 32℃(最高気温)
 7:00起床
 8:30出発
 9:00風穴洞口付近にてザイル訓練
 9:30風穴にてたて穴訓練、アップザイレン、梯子登攀を各自数回行う。洞ロより約17m下のオーバーハング地点に横穴を確認。
17:30終了
 
7月22日 晴 34℃
 6:00起床
 9:00出発
10:15喜惣次穴にて横穴訓練、写真撮影を行う。
12:30そら穴にて、たて穴訓練を実施中一名が落石により負傷した為直ちに中止しべースに帰る。
 
7月23日 快晴 35℃
 6:00起床
 9:00出発
11:00坪沢穴、50m地点まで降下。写真撮影。
14:00終了
 
7月24日 快晴 33℃
整理 休息日
 
7月25日 快晴 34℃
 6:00起床
 9:00出発
10:30かさどり穴入洞。洞ロより約20mの地点、(あり地獄)の砂で埋没している地点約10mをザイルで確保しつつ、シャベルと手で約3時間かかって突破し、さらに洞奥の一部を予備調査。
13:00終了
 
7月26日 快晴 33℃
 6:00起床
 8:30出発
10:15かさどり穴の測量、午前中に約2時間で約3分の2を測量。
13:00残りの3分の1を測量。測量終了
 
7月27日 晴 34℃
 6:20起床
 9:00出発
10:15坪沢穴を再度調査、氷渡へ通ずるたて穴(24m)を降下
13:30終了
 
7月28日 晴 夕立 31℃
 6:00起床
 8:00日大のトラックに便乗し出発。氷渡洞の左洞に入洞。日大よりクリノメーター測量を教わる。菅野、北山帰京
13:15終了
7月29日 晴一時雨 30℃
 6:00起床
 8:00日大のトラックに便乗し出発.
 9:00音松洞に入祠、クリノメーター測量の訓練
 
7月30日 晴一時雨 32℃
 9:00起床
11:10出発
12:00風穴入洞、横穴をクリノメーター測量
15:00終了
 
7月31日
岩泉へ移動、ベースを龍泉洞わきのキャンプ場に定める。
 
8月 1日
前回に探した五郎兵衛穴を今回も搜したが、二つの無名穴を確認したにすぎない。
 
8月 2日
小本にて合宿打上げを行う。

<測量した洞穴の状況>

風穴の横穴
洞ロよりふたつめのオーバーハング地点に開口しているが、みつけだすのが、はなはだ困難である。
開口部より2m進むと約1m落ち込み、天井が低く50cm程度であるが、幅はかなりある。4mほどこのまま続くが、それを過ぎると小さなホールに出る。さらに高さ50cm、幅1mの箇所が5m続き、次に比較的大きなホールに出る。このホールはフローストーン、石柱、つらら石、ストロー等が見られる。このホールから先は今までの箇所に比べかなり広くなり、充分に立って歩ける。これから先15mほどで小ホールに出て行き止まりである。

かさどり穴
洞ロより約70mの地点ではかなり広く、ほぼ直線に進み、そこより30度の傾斜で約20m砂場が続く。なお通常この先端部5mほどは砂で埋没しており、この先端部はかなりの風が吹いている。この地点を過ぎるとホールに出る。そこより約30mは起伏に富んでおり、この30m地点で2方向に分岐し、左洞は約20mまで進める。なお洗端部は砂でおおわれている。右洞は14mほど落磐の上を進むと、高さ約10mの細長いホールに出る。このホールは約27mで、この地点にのみ、フローストーン、つらら石が見られ、またコウモリの死骸がこの地点で見られた。この洞穴は全般的に第二次生成物は、ほとんど発達していない。

 今合宿中、反省すべき点は数多く生じたが、全般的にかなりの成果をあけることができたと思われる。今合宿は安家においてニ度めということもあり、状況把握も一応できており、比較的スムーズに計画がたてられたことで、所期の目的はほぼ完全に成し遂けられた。しかしながら、上級生と一年生との充分な計画段階における討議、交流がなく、合宿途中に一名の落伍者を出した点は、当事者及び我々上級生とも反省を必要とする重大な問題である。この点は今合宿に限らず多かれ少なかれ、精神的肉体的疲労の度合が日常の生活に比ペ高くなる合宿中にあって、行動をいかに円滑に行なうかという問題は、全ての行動において最も基礎的なことであり、それ故におろそかになりやすいことでもある。この点を我々は再度検討し、より綿密な計画段階を通じての活動を、今後の合宿に実践したいものである。
 次ぎに事故の問題であるが、我々の活動の性質上この点は常に意識し、これを避けるために、最大の努力を払わねはならないのは当然であるが、今回洞穴に於いて軽傷ではあったものの、事故が起きたことは、より一層安全対策の必要を迫られた。今回の事故は、たて穴で発生したもので、装備上の欠陥はなかったが、落石への注意を多少怠った為に生じた事故であった。この点から、活動中の安全に対する意識が多少欠けていたのではないかと考えられる。我部のように、とりわけ資金面で装備の不足しがちな場合に於いてこそ、絶えずこの意識を持ち続けることが最も重要なことであろう。
 今合宿を振り返って、以上のような二点が特に重要な反省すべき点であろう。合宿前の目標として掲げた、「洞穴技術の向上」「未確認洞穴の発見」という点にたって、前者は、特にたて穴に関しては坪沢穴、風穴と数回の昇降により全員ある程度の自信を持ったことと思うが、今後のたび重なる訓練により、確固とした技術を身につけたいものである。横穴の場合、今回は喜惣次穴、かさどり穴、氷渡洞等の洞穴で測量、写真撮影などを行なったが、今回、日大探検部から指導を受け、クリノメーター測量の技術を修得したことにより平板測量にない利点を生かした活動が今後できるであろう。平板測量はかさどり穴でのみ行なったが、この方の技術は確実に修得した。写真撮影は特に困難な技術であり、我部においては特に未熟であると思う。特に立体感のなさをつくづく感じた。この点は今後の課題として充分研究する必要があろう。
 次に、「未確認洶穴の発見」という目標であったが、安家に於ける探検がまだ一度めということもあり、我々と地元の人々との接触が充分でなく新洞の発見は果たされなかった。我々独自でもって発見するのは、短期間でもあり、ほとんど不可能であろう。しかしながら、偶然にも、風穴の中で横穴を発見できたのは幸いであった。当初に掲げた「夫確認洞穴の発見」という目標は、我々の一方的な先走りであり、最も重要な段階を飛び越えた目標であった。我々の活動は、地元の人々を理解し、また我々を理解されてのみ、我々の活動の意義がみいだされるであろう。今回の合宿を通じて様々な成果、問題点がみいだされるが、我々は再度これらの問題に検討を加え、今後の活動を行なうべきであろう。

〔参加者〕
CL 八木伸太郎 理4年
SL 佐藤継郎 経2年
   江ロ秀俊 経2年
   北山健治郎 経1年
   菅野隆之 社1年
第三次調査
佐藤継郎
 今回の第5次合宿は、新洞発見を第一目的として行なわれたが、最も期待していた長内沢の通称「幕立」付近では小さな横穴(全長5m、20m)をみつけたにとどまった。念願の大きな洞穴を探し出すことができなかった。二日目に不測の事態が発生したために、それ以後の活動に大きな制約を受けてしまった。洞穴探しは二日目だけで、その後は情報収集もままならず、ほとんど行なえなかった。風穴の測量はあまりうまくゆかず、クリノメーターによる測量の難しさを再確認した。トランシーパーはかなり使用でき、竪穴では予期し
ていたよりも威力を発揮した。今後もかなり使用できると思う。
 安家地域では、5回合宿を行なったわけであるが、洞穴の基礎技術を習得し終えたと思う。今後は実際の活動で、それをいかに発展させてくかが課題である。安家地域の今後の見通しは極めて見通しが暗く、他の地域へ調査地を変更した方がよいと思う。洞穴探しから始めて調査を行なっていく段階へ進まなけれはならなと思う。

<行動記録>
11月 6日
風穴にて、竪穴訓練および支洞の測量を行なう。

11月 7日
長内沢の「幕立」で洞穴探しを行なったが、5mと20mの小さな穴をみつけたにとどまる。今回は大きな新洞を発見できるものと期待していただけに非常にがっかりした。

11月 8日
追子沢の石灰岩の露頭している所へ、洞穴探しに出かけたが全くみつからず。

11月 9日
坪沢穴に入祠する。この竪穴は初めてみる人に恐怖感を与える。ハシゴを登り終った者の顔をみていると様々で非常におもしろい。

11月10日
氷渡洞に入洞。この洞は右洞と左洞に分かれているが、左洞の方が美しいので左洞のみをみて帰る。

11月11日
朝、久慈行のパスに乗り中戸鎖までゆく。ニ班に分かれて二つの洞穴にする。ーっはサイホンの連続した穴で、測量したらもしろそうである。

〔参加者〕
大熊進一
江口秀俊
佐藤継郎
ーツ木俊通
石原
上田実
飯塚均
総括
佐藤継郎
 昭和45年春・夏・秋の安家調査は、参加した各メンパーに様々な思い出を残して終った。同一地域での継続的な3回の合宿は我部では始めてのことである。始めてのことであるが故に多くの問題点を残したように思われる。
 3次隊までの成果をしいてあげるとすれば洞穴の基礎技術をある程度まで養成できたことである。しかし、これなども1次隊以前に4回も洞穴合宿を行なったのであって、その時に達成すべきものであったのである。
 1次隊より3次隊まで振り返ってみる。まず1次隊。プランニング段階での資料の収集がほとんど行なわれなかったことの失敗がある。それでも、安家ではよく動き主な洞穴はほとんど入っている。役場でもらった立命館の報告書に全く頼り切ってしまい、現地での情報を集めることをしなかったために日大探検部が8次隊まで派遣していたことを知ったのは東京に帰しばらくたってからであった。1次隊が今後の調査対象としてあげた洞穴は、日大との接触でほとんど調査が終わっているか、進行中であることがわかった。70年6月の時点では、とにかく洞穴へ入るんだという気分が大勢を占めている状況であった。
 2次隊が1次隊の行動の展開という形で提起された。「とにかく洞穴へ」のために今度もまた情報の収集が行なわれず、1次隊の入らなかった洞穴そして深い竪穴へ入ることが目的となってしまい、新洞を発見することも目的となっていたが、発見できれはいいなあという状態でそのための具体的な行動は行なわれなかった。現地においても、ただ洞穴に入りに行くという状態で、ある程度の長さ深さをもった洞穴はほとんど入り終えてしまった。入れそうな洞穴がなくなってしまうと、もうやることがないので予定期間の半ばにして合宿を切り上げてしまった。これなどは合宿で何をどのように行なうかが明確にされないまま現地に入ってしまった結果だと思う。3次隊が派遣されることになっているのであるから、合宿を切り上げずに現地で次の行動を決定すべきであったと思う。もっとも2次隊が合宿を切り上げたにもかかわらずに3次隊がなぜ派遣されたかという問題が残るとしても。
 ともかくも3次隊は新洞発見を目的として派遣された。この合宿は初日に不測の事態が発生したために、まともな活動はできなかった。しかし不測の事態が発生しなくとも結果は同じだったろうと思う。新洞発見ということも、実際は洞穴未経験者のためのという性格が濃いということ。そして、2次隊が新洞を発見するために前提となる条件をつくりだなさなかったことである。
 1次隊より3次隊まで、計画・実行・合宿後のそれぞれの段階が大まかというか、あまりにも雑であったことが致命的であった。個々の合宿がそれぞれ独立していて一貫性がない。これは合宿後の反省会および報告書の作成がずさんだったせいである。特に2次隊の1次隊と3次隊を結ぐその位置からみて、その欠陥は大きかったと言わなければならない。1次隊の活動の展開として提起されていながら、ほとんど展開的活動を行なわなかったこと、そして1次隊よりもその活動意欲が後退していたようにすら思われる。合宿後の反省会においても全く問題点が指摘されないままだった。日大等の安家での調査が着々と進行しているという状況のなかで、我部の安家の活動の姿勢と展望を明確に打出すべきではなかったのか。合宿そのもの、およびその前後の運営の方法を反省すべきではなかったのか。
 我々はあまりにも安易に安家へ行ったのではないかと思う。今後は、安家での失敗を繰返さないためにも慎重に行動してゆくべきである。
山岳・川下り編Ⅰ 川下りについて
一ッ木俊通
 過去、二年間我々は「探検」というものをいかなる所で又、いかに行なって来たか?無人島、洞穴、山等考えられるフィールドはほとんど経験してきたのではないか。しかし過去の活動のほとんどに共通したことは、そのフィールドが我々にとって未知のものであり、又、あまり普通の人間が立ち入らない場所であるという事であった。「探検」という以上、あたりまえの観光地登山コースを行くのでは意味がない。誰も行けなかったところへ行こうとしなかったところを目的地として選ぶのが先決問題であった。しかし現在探検部活動は一つの壁にぶつかっていると言わざるを得ない。その原因は「あたりまえでない場所」が急速に減りつつあるという事にある。そこで当然、探検する場所よりも、その方法―例えばドラム管で海を渡るとか気球で草原を観察するとか―に重点をおくようになる。そういった状況の一つの表われとして今度の川下り計画も生まれたものと思う。当然それは危険性の多い「冒険的」なものと変質しているだろう。それを「探検」といえるかどうか疑問だが、計画に参加する人間ひとりひとりには少くとも「未知のもの」である。こういった個人の「内的な未知」に対する探検というものをつきつめていくことが今後の探検部活動に新生面を築くものと思う。
山岳・川下り編Ⅱ 多摩川川下り報告書
<日程>
6月7日(晴)
  8日(晴)

<経過>
 氷川と青梅の間の多摩川流域にキャンプを張って、夜のミーティングで、キャンプより約1km下流の地点より川下りを始める事に決定。8日に予定地点より開始したが、川底が浅く、ボートに穴があき、修理しながら行動するという最悪の状態になったが各人の努力によって何ヵ所もの難所を越えた。約3時間、行動した後、急流でついに転覆し、3人ともぬれねずみになり、その上ボートの破損も大きく、続行は困難と判断し、活動を断念した。下った距離は約4キロであった。

 今回は夏合宿元浦川(北海道)での川下りの準備行動であり、ボート操作の訓を目的としており、多摩川での訓練は今後も機会あるごとにつづけてゆきたい。ポートによる川下りはこれからの我部としてとりあげてゆきたい活動の一つであるが、非常に危険なため、いつでもエスケープできるようにしておくことと、しつかりしたサポート隊をつける必要を感じた。しかし、国内の川下りには水量などの関係がある程度の限界もあるのではないだろうか。

〔参加者〕
春日屋誠
棚井清春
高橋敏夫
山岳・川下り編Ⅲ 北海道元浦川川下り報告書
一ッ木俊通
 川下りという分野は行動隊は勿論だが、多人数のサポート隊を必要とするので山岳班との協力により実行する事に決定した。日高山系より流れでる元浦川はダムも少なく、本土ではダムにより、川下りに適当な水流も少なくなったことにより、フィールドをここに決定した。予備調査は充分しなければならないだろうが、フィールドの関係で難しく、下流から道路ぞいに調査するにとどめた。今回のために多摩川で一応の訓練はしてきた。

<行動記録>
7月21日(晴)
元浦川上部にBCを設置。1週間前まで大雨が降ったとのことで、となりの静内川は氾濫したとのことであったが、水流も落ちつきを見せてきたので明日より決行することに決定。

7月22日(晴)
4時起床。5時50分にBCを出発。6時15分造村小屋のところよりボートをフローティングして川下りを開始する。サポート隊との無電連絡は谷が箱になっているため通じない。
 T君とH君がザイルで結んだボートをフローティングする。8時45分ボートに底板をつけて出船する。しかし、所々でフローティングをしなけれはならない。9時30分同じ状態である。はじめは1分も足を水の中に入れていられなかったがもうなれてきて腰までつかっても大丈夫である。9時40分前方に2m程の滝が現われた。滝上まで行ってみたがそこで、アクシデントがおこった。T君とK君が体ごと水につかり、歯をガチガチいわしている。滝上まで来て乗船して、川下りを中止しようとしたと同時にボートが滝にのまれてしまいK君が一緒に下ってしまったのである。T君も滝の下にあるボートに飛びうつることができずに滝つぼの中に入ってしまい、残ったのはH君だけであった。一番心配していたことが起ったわけであり、行動隊としてもこれから十分注意する必要がある。やがて川下りも調子にのりだしたと思った10時30分、また2m程の滝が現われ全員重心を後部に移したが、転覆はまぬがれなかった。水温が低く水につかると泳ごうと思っても自由に体が動かなくなるのである。途中の浅瀬でボートの応急修理がおこなわれた。サポート隊とうまく連絡がとれない。11時再び川下りをした。11時30分ボートに大穴があいて浸水がひどく、林道が見える所でE君をサポート隊との連絡に向けた。緑橋地点でサポート隊に会い詳細を語る。ボートの修理に時間がかかり、今日はこ
れ以上川下りを続行することが不可能ときまり、写真撮影をして活動を中止する。5km程の川下りであったが、ボート操作の不慣れから、ボートの破損はとても大きい。

7月23日(晴)
ボートの大がかりな修理をして1日すごす。行動隊の3人は岩に体をぶつけて体中がいたむ。
7月24日から28日までは山岳班の活動の為川下り隊は一時中止する。

7月29日(晴)
5時起床。6時出発。サポート隊は先発した。再び緑橋地点から川下りを再開する。30分程でソエマツ沢の出合となり、水量も多くなって楽にくだれた。川幅は20mとなり、ボートも完修され気持ちのよい川下りがつづく。2km程下った所で、サポート隊の昼食をとり、K君、T君、H君の3名が流れにまかせて順調に進む。11時川原は30m以上となり、河原には地元の人々が遊んでいる。大きな橋を通過した所で、思いがけなく流木にボートがひっかかり、ボートの底が大きく引きさかれた。一瞬の間に3人とも川の中におちてしまい、川下りは最後までつづけられなくなってしまった。ボートの破損は大きく、使用が不可能となったからである。

 川下りに注意しなけれはならないのはやはり急流となっている個所であり、流木にはそれ程注意をはらっていなかった点に失敗の原因があったのだろう。しかし、ボートの質をいう前に我々の技術を問い返すべきであり、今後の川下りには更に高度な技術と十分な下調べが必要である。

〔参加者〕
CL 春日屋誠
   硼井清春
   ーツ木俊通
山岳・川下り編Ⅳ 日高山行報告(昭和45年度夏合宿)
ーツ木俊通
カムイクウテカウシ山 コイカクシュサツナイ岳 ヤオロマップ ペテガリ岳 中ノ岳 神威岳 ソエマツ岳 ピリカヌプリ
コイボクシュシャビッチャリ川 サシビッチャリ沢 西尾根 ペテガリ川 静内川 出発
一時中止 ソエマツ沢 ショロカンベツ沢 ボート破損のため中止 萩伏
日高山系
<目的>
もはや、日本に於いて探検するフィールドはないと言われている。ここ数年日高も多くのパーティーが入山している。日高山系は本土とは異った気候、地形状態であり、ハイマツ帯と水に悩まさることになるだろうが、我部の日高山系探査の基礎段階として神威岳よりビリカヌプリまでの縦走をソエマツ沢の探査を目的としております。

<行動>
7月20日(晴)
 9時58分日高山の浦河町に到着して、BCまでの荷物の輸送のためのトラックを捜し、最終的な食糧等の装備をそろえて、22時に消燈した。今年は例年になく暑い日がつづいてるとのことであり、天気も安定しており、多くのパーティが入山するとのことである。しかし、本土の山々とは違い町の中で登山靴をはいてる人間に会うことはなかった。

7月21日(晴)
 5時起床。9時30分トラックに乗り、荻伏から元浦川にそってシオマナイ沢の上流、神威岳と中ノ岳へ向う沢の出会の所まで来て、そこにBCを設置する。13時BC設置。
 午後は整理その他の仕事をして、夕食後、近くにBCを設いてる東北大アドベンチャークラブの連中とミーティングをする。彼らは神威岳に食糧(全部ビスケット類)をアルバイトして北日高から南下して全山縦走を計画しているそうだ。
21時消燈。明日から日高の山に登れると思うと全員多少興奮気味でなかなか寝つかれないようだ。

7月22日(晴)
 この日は行動を共にした川下り班のために全員でサポートにつとめた。

7月23日(晴)
 昨日の川下りでボートが大きく破損したため休養をかねてボートの修理をする。

7月24日(晴)
 4時30分起床。今日はまず日高山系の山の状態を知るためにもっとも楽に登山できる神威岳に登る。  6時第一二俣(BC)を出発して、シオマナイ沢にそって進む。全員、地下たびでなく山靴なので歩きづらいと思ったが、そうでもなく楽に沢登りをこなした。7時15分、第二ニ保につく。やはり、全員の山靴には水が入ってしまった。特にK君のはビシッビシッであった。彼はニブイといおうか、足が短かいといおうか、岩と岩との飛行距離が短かいのである。
 7時30分第2二俣から尾根にとつづく。神威岳は地元の山岳会が登山道を最近つくったということであり、たしかに道はしつかりとしているがアプローチがほとんどなく、急峻な尾根にまっすぐのびた道がつづいている。東北の飯豊の梶川尾根もこれに似たものであり、以前ずいぶん苦しめられたおぼえもあるが、これほどではない。1時間もハイピッチで登っていると、体力にのみ自信のある我々でも下半身につらさを感じるようになる。しかも、我々は夏山軽装備である。先頭をきっていたH君が予想以上の暑さのため頭痛をうったえて、ピッチが遅くなる。ほとんど尾根をまっすぐ進んでおり、クマをおそれずに先頭を切って勇敢に走ったためだろうと善意に解釈しておこう。
 幸いクマ君にもお会いすることもなしに9時30分神威岳ビークに立つ。周囲の山々はガスに時々見えかくれするが、太陽は真上から強い日射しが我々に
照りつける。しかも、ブヨが多く、ゆっくり休むこともできない。下からもってきた水6lも半分以上、昼食で使用して飲用のものがなく隊員ら多少の文句も出たが、日高ではこのくらい節水してなくてはとても縦走はできまい。昼食には堅いフランスパンのみであり、水がないので全員アゴがいたくなるまでかじらなければのみこめないのである。
 日高山系は本土の南北アルピスや谷川連峰などのように壮観さはなく、全体にハイマツとダケカンバにおおわれて、山々はダークグリーンで雄々しい岩肌などはどこにも見られない。さらに沢すじに細く小さくこびりつている雪候でさえも、チョコレートパフェのごとくであり、涼を呼ぶほどのこともない。北斜面では700m程から雪が見られる。神威岳西側上部に東京の近くにあれはすはらしいゲレンデとなるような岩場はあるが、日高がゲレンデとなることはあるまい。結局日高山系が登山の対象となるのはその長大な縦走路と深く入り込んだ沢にあるのであろう。また、秋にはシカが現われて、その肉が絶品ということである。
 11時ピークを出発して、1人1杯ずつ水の補給があり、それからは一気に沢まで下っていった。日高のくま笹とハイマツは予想以上で、全員が体にキズをつくってしまった。沢で体を洗って、14時BCに到着。
 日帰りではあるが、これで日高の山については感覚的に全員カ肥握したことであり、明日はひとつ北にある中ノ岳へ登頂して縦走の準備を進めていった。夕食まで東北大アドベンチャークラブの連中と会合をもち、彼らの幌尻岳から楽古岳までの縦走の成功を祈った。

7月25日(晴)
 5時30分起床。今日と明日は中ノ缶への登庁であり、中ノ岳の上部のカールにあるクマ笹地帯はきっと泣かされることであろう。
 8時BCを出発して、二俣の右沢を6人がキスリング3つ、アタック3つで遡行をはじめる。沢を左にまいて、10時30分雪溪のある所まで来た。沢は左右にわかれているが中ノ岳は左沢上部に見えはじめた。右沢遡行が可能と判断して左沢を遡行したが、滝は少なく、またそれほどの高さもなく楽しい沢登りがつづく。
 12時昼食のジフィーズをとり、右側の尾根の上に1本ある木の上から、周囲を観察し、又、沢をさらに斥候を出して調べてみると、かなりの落石があって危険とのことで、14時尾根にとりつく。尾根へのとりつきは50m程の岩場であるがザイルで確保するほどのこともなく、ホールドを捜してフリークライムをつづける。
 14時30分尾根上部に到着。ここで最後の水を13lつめる。尾根はクマ笹とシラカバが密集しており、ヤプコギというよりは笹コギである。笹コギが1時間程つづいてようやく、中ノ岳ピークが見えはじめた。そこは中ノ岳からつづくカールのクマ笹地帯で遠くからはアルプ状に見え楽に越えられると思われたが、さすがは日高であり、背高より高いクマ笹には全員悩まされた。
 その時トップをきっていたS君がクマ君の声を2度聞いたとのことであり、又、まだ新しクマ君のふんをみつけた。しかしクマに対する対策は準備してきた。笛などの金属音でなんとか、自分たちなりになぐさめるだけである。笹コギは予想以上に時間がかかり、更に悪いことに自分がどこをめざしているか確認できない。時々、木や岩に登ってルートを見つけては前進するのである。
17時30分やっとのことで、クマ笹地帯から脱出できた。ふり向くと自分達がどのように登ってきたかまったくわからない。広々としたクマ笹の平原がきれいに整ってみえる。ここで今日のビバーク地点を確認した。中ノ岳ピークより100m程下ったコルにつきあげて、そこをビバーク地点とすることになった。今度はハイマツコギが開始された。手でクマ笹をかきわけて行くよりハイマツの上に乗っての行進は意外と楽である。
 18時20分中ノ岳がよく見える陵線にたどりつく。太陽は西尾根にしずもうとしていた。アルファー米とカンヅメ、それに紅茶を1杯ずつ飲んで7時強い風に悩まされ、それまでの沢登で、水を飲むくせをつけてしまって、のどが渇いてよく眠れないようである。夏の日高山行にはやはり水は大きな影響力がある。

7月26日(曇のち晴)
 5時起床。4時40分ACを出発して中ノ岳へ向う。  6時中ノ岳ピークに全員が立ったが背高以上のハイマツの為、1人ずつハイマツから突然姿を現わし、多少ナタ目のはいっているピークに立つありさまである。頂上で1本ずつタバコを喫ってみたが、のどが渇くのでみんなあまり喫いたがらない。やはりピークでのタバコはとてもうまい。ACに置いてきたたった1缶のミカンの缶詰を食べるために6時30分下山を開始した。
 7時30分ミカンを6つぶずつ食べ終えて、更に下山を進めたが、クマ笹の中を下るのは足元が見えず、そしてよくすべるので全員きずだらけになってしまう。天気も晴れてきて、下山ルートも確認でき、下山ルートを尾根に求めてカールをトラバースして遡行してきた沢の右尾根を下山していく。登りに悩まされたクマ笹は体のキズを考えなければとても快調である。特にT君のクマ笹すべりは中々うまく、クマ君が出てきても逃げられるのは彼ひとりであろう。他の者がすべったら止まらなくなるクマ笹の中を回転しながら下っていく。
 尾根に入るところで最後の水を飲み、これからはいよいよブッシュである。11時尾根を一気に下り沢まで出た。登りよりもだいぶ下まで尾根を下ったので、これからは大きな滝もなく楽にBCまで帰れるだろう。冷たい水を腹一杯飲んで、非常食までたいらげてしまった。12時沢を下りだした。
 14時BCに到着。体を洗って、キズに薬をぬりつけ全員さっぱりして、夕食を食べる。明日からはソエマツ沢に入る隊と縦走隊に分けて本格的な活動が開始されるのである。

 しかし、ここで大きなアクシデントがあったことをラジオで知った。カムイエクウチカウシ岳で福岡大WVのパーティの3人が熊にやられたということである。我々の行動する地域はだいぶ離れてはいるが、日高山系の登山は中止するようにラジオで呼びかけており、熊に対する準備は大いに考慮してきたつもりであったが、実際にアクシデントが起ってしまうと計画をこれ以上実行するのはむずかしいようである。
 食糧の調達をかねて2名を地元浦河にある遭難対策協会に連絡に向けた。遭対協では「中止させる権限はないが、ソエマツ沢には熊が多く、せひともやめるように」といわれた。BCはすでにソエマツ沢出合まで移動しており、本格的活動の準備は出来ていたが、全体でミーティングを開き、リーダーの決定を待った。遭対協から中止を言われているのに、強引に実行してももしアクシデントがおこった場合には我々の行動は100%無謀な冒険とみられるとの結論にたっし一様2,3日様子をみることにした。

7月28日(晴)
 7時起床。ラジオで3人の遭難が確実になったことにより、残念ではあるが、今回の日高山行はこれ以上は中止と決定した。つつしんで彼らの冥福を祈る。

7月29日(晴)
 今日からは同行した川下り班のサポートをつとめることになる。部員の少ない我部では当然のことなのである。地元浦河で各方面に挨拶して、夕方より残念会を開く。

 熊に対する準備は十分のつもりであったが今年は例年にない暑さであり、又最近の登山プームで登山者の残した食物をあさりに熊が人間に近づいてくることなどから、遭難はおこったようだ。計
画が実行できなかった点は残念であるが、非常に貴重な経験をしたことであ、今後の我部の活動に積極的に考えてゆきたい問題であった。

〔参加者〕
CL 藤森義男
SL ーツ木俊通
   春日屋誠
   棚井清春
   菅沼良樹
   上田実
山岳・川下り編Ⅴ 韓国山行報告
韓国の山について
藤森義男
 一般的にみて、韓国の山はスケールという点で日本のアルプスど大きくない。代表的な山として、済州島の漢拏山(1950m)南部の智異山(1915m)北部の雪岳山(1708m)がある。
 そのような関係もあってか、韓国では岩登りが盛んであり、多くのゲレンデがある。また、韓国の登山は最近普及はしているものの、まだまだエリートのスポーツである。なせなら装備が高く品数も少ないことがあげられる。例えばスペア一台にしても日本の倍であり、物価の安い韓国においては、一般庶民の手に入りにくい。
 もうひとつ韓国の地図は不正確であるから、絶対的に信用することは危険である。また、道標もハンクルで書てあるので、なるべく山行前にその地名をハンクルで書てもらって行ったほうがよいだろう。
 最後に私達の山行に協力してくださった釜山山岳会の宋さん、李さん、■さんと韓国山岳の池さんに感謝します。
済州島"漢拏山"
 釜山から回済州島へ「トラジ号」「済州号」のニ隻が出ているが、風の強い日などは出航をみあわせることが多く、日本からの登山者の場合は2~5日釜山で余裕をみる必要はある。
 港から済州市中心まで300mある。済州市は静かな小さな町である。天気さえよければ、町からは、はっきりと漢山が見える。済州市から、島の横断道路タクシーで小泉堂までく。そこのポリボックスで簡単な入山カードを書く。小泉堂から観音寺まで50分ほどである。観音寺から西に広い道が延びており、15分か20分ほど行った所の小道から南に登ることにした。別れ道では道標がついているが、ハンクル文字では何と読むのかさっぱりわからない。地図に小屋の名をまえもってハンクルで書てもらった方が良いだろう。
 道はいままでの広々とした野原から、順々に雑木林に変わっていく。途中から赤十字小屋のマークの道標がついている。観音寺から2時間ぐらいで、沢の出合にでる。このすぐ上が赤十字小屋である。もちろん無人小屋で、私達はここに泊ったが、時間が許せば上の玉冠峰の小屋に泊るのもよい。
 翌日、小屋を出発し尾根にとりつく。道もはっきりして迷うような所はひとつもない。この尾根は蟻の背と呼ばれている。4~50分も登れば広い草原になり、視界が開ける。小屋から2時間半どで蟻の首という尾根の最終部に出る。ここから山を右にまいて行けば、なもなく玉冠峰の小屋に到着する。ここからはもう漢拏山もすぐ近くに見える。道は、東側の稜線へ登る。4月には雪も若干あるが、アイゼン・ピッケルなどもちろん必要としない。稜線を南に登って行くと、ほどなく火山のまわりに立つ。山頂はこの西側にある。この火山の中に火山湖があり、その脇に天幕も張れる。ここで水のことであるが、赤十字小屋から玉冠峰の小屋まで水はない。頂上の火山湖の水も使用できる。私達もここに泊る。
 火山の周り東側からも道があり、5時間ほどで島の横断道路につく。我々は、島の南側、西帰浦まで下る。まず南側は急な下りがあるが、少し行くと広原となる。山頂から広原をぬけると、雑木林のジャングルと変わり、ルートはなくなる。晴れていれは南に米岳山という草山がよく見え、これを目標にして下れはよいが、ジャングルの中では見えなくなる。ジャングルも、沢すじの近い尾根を下っていけは、割合速く下ることもできる。その時間は5~6時間とみておけばよいだろう。なにしろまっすぐに下ればよい。私達は途中一度きのこをとっている人に会った。ほどなく、一軒の小屋に着く。ここから道があり、小屋の子供が途中で道を教えてくれた。約1時間で米岳山の麓の村に着く。ここの教会に泊る。
■林(hallim) 済州(cheju) 中立(changman) 表善(phyoson)
400 600 800
済州島漢拏山
<行動日程とコースタイム>
4月20日
6:00京城発―12:30YAEKAPYNG―14:40百潭寺

4月21日
8:40百潭寺発―伽■洞溪谷―19:00喜雲閣

4月22日
6:40喜雲閣発―7:40小泉堂―8:20雪岳山―10:20喜雲閣―12:10陽瀑山荘―14:50飛仙台―16:00神興寺―束草
〔参加者〕
CL 高橋敏夫
   藤森義男
   棚井清春
雪岳山
 京城から束草行きのパスで6時間半、YAE・KA・PYNGに到着する。あたりは普通の田舎の村といった感じである。バス停の降り口に検問所があり、入山許可を取る。もう、ここらは北鮮との国境線に近いせいか、検問も厳重である。国道を右に入り、河ぞいの道を歩く。自動車も楽々入れるほどの道である。約1時間半も歩くと道標があり、百潭寺へ入る小道がある。百潭寺は、河の対岸に2~3軒の家があるだけの所だが、河のほとりは牧歌的な楽しさがある。普通なら泊めてはくれぬ寺に、外国人だからということで特別に泊めてもらった。
 翌日、寺を出発。はっきりした小道を歩くが、あとは沢づたいに歩かねはならない。途中三ヶ所ほどハンクル文字で矢印が分かれていた。日本の山のように人に会うことは少ないから、道をまちがえることには、十分注意すべきである。また、このあたりの沢の地図(1/5万)は完全にまちがっており、これをあてにすると、とんでもないことになる。事実、私たちもその日に双曝をぬけて、風頂庵へのコースであったが、伽■洞渓谷へ入ってしまった。寺から1時間20分くらの所に馬等嶺へ行く道と分かれており、さらに1時間20分くらいの所で、双瀑への沢と伽■洞沢との出合に出る。伽■洞沢は、水量の多い時期には多少気をつける必要もあるだろうが、普通の場合だと特に滝もなく困難なコースではないが、ルート・ファインディングだけは慎重であらねばならない。途中、所々にケルン・赤布がある。ニヌから2時間ほどで岩に示しがあり、三方に分かれる。右の尾根をとりつけば鳳頂庵へ行き、左は馬等嶺へのコースである。我々は、初め左のコースをとったが、途中でまちがに気づき、沢をそのままつめることにした。2司で喜雲閣である。今夜は、ここで宿る。
 翌日、喜雲岳から雪岳山に向かって右手の尾根を1時間ほどの急登で小青に着く。ここから中を経て、大青(雪岳山)まで40分である。4月の尾根には、雪が少しつている。ピッケルでもなくても別に問題ではない。頂上といっても何もなく、「ここが頂上かいな」とまちがえそうな所である。ぽつんと記念碑が立っている。直上からの下りは、1時問もあれば喜雲閣に着く。喜雲閣からは、沢へおりて陽瀑山荘まで1時間、険峡の危険箇所には橋がかかっており、道もはっきりしている。陽瀑山荘には管理人がいて、りっぱなコンクリートの建物である。ここから飛仙台まで1時間半もだいたい同じような険峡であるが、道も完全に整備されて、不安な所はない。飛仙台は上高地のような場所で、修学旅行の高校生も多い。飛仙台から神興寺までは30分。神興寺からはバス、タクシーとも走っており、タクシーならば400Wくらで束草まで帰れる。

<行動日程とコースタイム>
4月13日
8:00(済州号)済州市―10:45小泉堂(入山許可)―11:45観音寺―14:00赤十字小屋(泊)

4月14日
6:00(起床)8:30(出発)―10:15蟻の首―11:00主冠峰小屋―1:00―15:00漢拏山ピーク―15:30火口湖脇に露営

4月15日
5:30(起床)7:30(出発)―山頂の周囲を一周―9:30ジャングル―15:00小屋―16:00米岳山麓教会

4月16日
6:30(起床)8:30(出発)―11:00西帰浦―14:30済州市
メラネシア編
大熊進一
Ⅰ はじめに
 立教大学探検部創立2年めで、初めて海外遠征ということになりますが、今回は遠征にこだわらず、個人的な海外旅行に終始することを恐れずに、探検するという最初の原点である未知への欲求ということで出発することにしました。予備調査という名目で現地の地理的、文化的状況を把握し、さらに本格的調査を行なうことができるように資料等を収集することを目的とします。またそこで生活をしている人達とじかに会って、彼等の衣食住、社会生活をみてきたいと考えています。探検部部長である石川栄吉教授と行動を共にし、更に途中から杉之原寿ー教授(神戸大)が参加します。
Ⅱ 日程
1970年
7月28日
東京(TOKYO)発

7月29日
ポート・モレスビー(Port Moresby)着
New Britain ラバウル(Rabaul)着

7月31日
New Ireland ナマタナイ(Namatai)着

8月 2日
New Ireland ケービング(Kavieng)着

8月 3日
ラバウル着

8月 5日
ブーゲンビル島キエタ(Kieta)着

8月15日
ガダルカナル島ホニアラ(Honiara)着(ベース地)
8月17日
ナゴターナ島着

8月19日
ホニアラ着

8月26日
サンタ・イサベル島着

8月30日
ホニアラ着

8月31日
マライタ島アウキ(Auki)着

9月 1日
ホニアラ着
南ガダルカナル着

9月 3日
ホニアラ着

9月 4日
ギゾ(Gizo)着

9月 6日
ホニアラ着

9月 7日
ポート・モレスビー着
香港(Hong Kong)着

9月 9日
東京着
Ⅲ 地図
ニューギニア Port Moresby ニューアイルランド Kavieng ニューブリテン Rabaul ブーゲンビル Kieta Gizo サンタ・イサベル マライタ Anki ナゴナータ ガダルカナル
Territory of Papua New Guinea British Solomon Iskands Protectorate
メラネシア
Ⅳ 概要
 太平洋南西部、オーストラリア大陸の北東部に細長く連なる島々の総称をメラネシアと言い、総面積約155,400k㎡北西からニューギニア、マドミラルティ、ビスマーク、ソロモン、サンタークルス、ニューヘブリディース、ニューカレドニアおよびフィジーの各諸島に分かれている。
 すべて火山に伴う陸島で陸上には隆起サンゴ礁の台地も多い。海岸はサンゴ礁あるいはマングローブに囲まれ、陸内地への通過を著しく困難にしている。雨量が多く一部を除いて年間2,500~3,500㎜を記録する。おおむねは密な熱帯雨林に包まれ気温も日中30~35℃とほとんど変わる事はなく、はなはだしい湿熱は人間の活動力を著しくにぶらせる。
 原住民の大半が気力に乏しい、肉体的にも劣弱なメラネシア人である。同じメラネシア語族に属するものでも数km隔てると、もはや言葉の通じない事もめずらしくなく各々の内部における方言の分化は著しいものである。
 形質的にメラネシア型はパプア型と一括してオセアニック・ネグロイドと呼ばれ、外見上アフリカ黒人にきわめてよく類似している。黒色ないし暗かっ色の皮膚に黒色の縮毛をもつが、パプア型が中等位の身長・長頭鈎鼻を備え、オーストラリア原住民にやや類した人種的特徴を呈しているが、メラネシア型はやや中頭・やや高身・広鼻である。パプア型はニューカレドニア島に到るまでの大きな島の内陸部にみいだせるが、メラネシア型はニューギニアの北岸東岸をはじめ主として海岸部に分布し、特にソロモン島人はメラネシア人種の最も純粋な形式を保存しているといわれる。
 社会生活の中心は村落にあり、通常100から500人位の人口を擁する村落は独立した政治的な単位であり、より大きな部落組織へ結集することはない。村の成員は各種の共同を行ない、男子集会所や儀式場を共有し首長をいだき共有の生活規範に律せられて、きわめて強固な社会集団を形成している。社会的階層分化は未発達であり、村首長は社会的名声によって選ばれた村人の代表者にすぎずなんの強権をもつことなく地位も世襲されない。
 産業はコプラやココアその他の農業が大多数で農耕には男女とも従事する。
Ⅴ ブーゲンビル紀行
8月5日
 珊瑚礁を照映えさせていた太陽の光を尾翼が切ったかと思うと飛行機はスピードをおとし、ゆっくりと旋回した。11時30分、機は黒い珊瑚礁の島ブーゲンビル、キエタ(Kieta)に翼を休めた。飛行場から車で20分のところに町がある。町と言うよりは飯場と言った方が妥当と思えるほど、稀簿な感じがする所、これがキエタの第一印象である。ホテルは一軒あるが空室がなく、空室ができるのを待っため、ホテルのスタンドバーに行ったが、白人も黒人もいりみだれてビールを飲んでる。よくまあ真昼間から飲むもんである。ここのバーは朝10時から夜10時まで店をあけているとのこと。相当酔っている原住民が日本人とみると話しかけてきたが、彼の話を聞いているとなかなかおもしろい。日本はなんでも№1であり、オーストラリアは№10であることを断固として主張し、戦争中、日本人とアメリカ人が闘っている時に、オーストラリア
人は逃げかくれていたということを身ぶり手ぶりで示してくれる。ジャパン№1をあまり乱発するので、こちらの方が恥ずかしくなるくらいである。今日の宿は中国人の店や警察にたのんだが、結局バーが10時になったらしまるので、そこにベッドをもちこんでとまることになった。世話になった警官と一緒に食事をしたが、ここの警察でもジュードーをやっていると言っていた。またパプア・ニューギニアの住民の大部分が言うように、彼も2,3年後にはオーストラリアから独立すると言っていた。

8月6日
 車を借りるため、レンタカーを捜したが、25才以上でないと保険の都合上貸してくれず、個人のトラックを借りることにしたが、何とこの車相当ガタがきており、最初見た時に、アーとため息がでたほどである。夕方いい車と交換してもらうことにして、今日はこの車で寝る場所を捜すことにした。アラワ(Arawa)村で車をとめ、村のボスと交渉したが、ビールと交換でとめてもらうことになった。町へひき返していい車ととりかえてもらおうと思ったが、ここでポンコツ車のアクセルペダルをつないでいるワイヤーをつなぎ、町へ戻ったが、交換する車がなく、ふたたびアラワへ。ブーゲンビルの原住民はメラネシアでも一番皮膚の色が黒く、黒人は神様が焼きすぎたという話でたとえるならば、ここの原住民は一番の焼きすぎであろう。アラワ村へも戦争中、日本人が来たらしく"もしもしカメよ" "あめあめふれふれかあさんが" "白地に赤く"などの歌を歌ってくれた。戦後25年もたつのによく覚えているものである。また日本の時計は№1オーストラリアは№10らしい。オーストラリアも植民地をもっていい面の皮である。ビールを持っていったおかげで集会所から教会に寝る場所がかわった。教会といっても、イスの上に板を敷いて、その上に寝るのであって、野宿とかわりなく、屋根があるだけマシとう程度である。

8月7日
 朝からドシャ降りである。車の交換のため町へ行こうとしたが、ポンコツ車ついにダウン、エンジンをかけてもウンともスンともいわない。仕方なく車を残し、通りかかったタクシーで町へ。途中川が氾濫し、橋の上を川が流れている。その上を走っていくのだが、川の流れで押し流されそうになったりする。東京の交通戦争で生き残り、こんなところで死んだらそれこそいい笑草である。やっとのことで町にたどりつき、そこでポンコツの主人にキーを返し、ふたたび車を捜した。こんないなか町で車を借りるのは至難の技である。結局借りられた車は前にも増してすごい、解体寸前ともいうべきオンボロである。エンジンひとつかけるにも、キーを入れてからさらにボタンを押しアクセルを踏んでかけるという旧式さ。ともかくこの車を明日から借りることにして、もう一晩アラワ村にとまることにした。
 アラワ村は海岸に面しており、約50軒近くの家があり、200人位住んでる。家は丸太で骨組を作り、竹を編み、屋根はサゴヤシの葉を使っている。服は簡単な洋服を着てお、り、腰まきもよく使われている。小さい子供達は裸の方が多いがそれでもカメラをむけると、急いでズボンをはいてしまった。この村にはトイレがないらしく、みんな海を使っている。カヌーが15、6海岸においてあるが、その内の2艘にMARUの名がつているのがあった。彼等の主食はさつまいも、ヤム芋、タロ芋などの芋類である。夜ここで映画会があるというので期待して待っていたが、その映画は小さな工場が働き生産することによって大きくなり、それにならって会社の運営も議会制をとり、民主的に行なわれるという道徳教育映画であり、他はニュース映画である。実につまらない映画であるが、彼等は一生懸命よく見ていた。ここは夜になると非常に冷えてくる。いかに冬とはいえ赤道直下、長ズボン、ヨットパーカーを着こんでガタガタふるえてるとは夢にも思わなかった。

8月8日
 朝早くからここの住民は、でむかえのトラックに乗って働きに行く。この近くにロロホ(Loloho)という港を建設中のところがあり、そこへ働きに行くのであろう。南太平洋の島もだんだん変わりつつある。さて車を1週間120ドルで借りることにして、コーペ(Kopei)村から山にはいり、カナビッツ(Kanabit)村まで行くことにしたが、この車、さすがなもので1時間走ってオーバーヒート、やむをえず1時間休憩。思うようにいかないのがここ南太平洋でもある。
 休憩後、山道を走らせたが、途中にチェックポイントがあり、ナンバーとドライバーの名前をチェックする。この道はまだ整備中であり、しかも急な山道であるため事故が起きた場合、すぐわかるようにチェックしているらしい。なんとかローギアーで走っていたが、ものすごく急な所で前の車がつかえて止まったために、こちらも止めなけれはと思いブレーキをかけたのが運のツキ、あまりの急な坂のため、この車のブレーキがきかず、ハンドブレーキを思いっきり引っはってもだめ。車はジリジリと後ずさりしてのく。冷汗がからだを流れていく。チキショー。そこへ天の助け、道を整備している大型車がガッシと車を受けとめてくれた。やっとのことでこの山道を乗りきったが今度は下りで、この車いつのまにかエンストを起こしている。下りならばブレーキを踏みながら何とかなるが、いくら山道の下りとはいえ、下りばかりとはいかない。時には上りもある。そんな時はたいへんである。スイッチをいれてボタンを押して、さらにはハンドルも回さなけれは谷へ落ちてしまう。やっとのことでたどりついたのがパングーナ(Panguna)なんと目的地のコーペ村はとっくに過ぎてしまったらしい。
 パングーナは来年あたりから銅がとれるらしく今はその準備期間である。昼夜のさかいなく車が走り、建設の槌音が響き、まさに南太平洋開拓の町である。ここにも日本人が5、6人働いているらしい。そして中型トラックはトヨタ、大型トラック、ダンプはイスズ、まさにエコノミック・アニマル健在なりをみせつけられた感がする。夕方ここを辞して目指すコーペ村へ向ったが、コーペ村はロロホからそう遠くない所にあり、無理をして急な山道は登る必要はなかったのである。人生とはこんなもんだ。今日は車の中に泊ることにしたが、ホタルの光が幻想的に輝き、闇の世界に入るのをなかなか許してくれない。

8月9日
 コーペ村へ行ったが村長(コミティーというのが正式な名称らしい)は日曜の朝の礼拝をしていた。ここでカナビッツへ行くためポーターをやとった。アンソニー・ボアナとドナト・アントリオで、彼らの道案内で山道へ歩を進めた。この5日間、食事といえはビスケットばかり食べていたので山道が非常にきつい。山を登りつめたところでヤシの実をとってもら、ノドをうるおす。ヒョロヒョロと伸びたヤシの木に彼等はいとも簡単に登っていく。ドナトはおとなしい性格だが、やることはちゃんとやる。アンソニーはなかなかしゃれたことをするが、かなりおせっかいである。そして何かというとYou can seeを連発して御託をならべる。でもとてもおもしろい役者である。
 山の中にいくつか小さな村があるが、彼らがつくったガーデンと思われるパナナやイモの焼畑が急な斜面をきり開いて行なわれている。4時間半かかってコーペとカナビッツの中間にあるボイラ
(Boira)村に着いた。山の上の坂に集落ができており、なかなか美しい所である。今日はここに泊ることにした。
 約50軒ほどの家があり、教会にはりっぱなクロスがおかれてあった。この村のコミイティーはヒッピーみたいに髪の毛がモジャモジャしている。ここいら辺の原生民の髪の毛の大部分は黒く縮毛である。女性の中に白い髪をもったのがいるがこれは生まれつきと、薬を使って白く染めているのとがあり、なんでも白く染めるのが流行しているらしい。ここの子供達は目がクリクリしていてとても可愛いい顔をしている。こんな山の中では教育にも困るだろうと思ったが、どういうわけか、学校へいく年にあたる子供がいなの。そしてこの村もやはり若者がいない。どこかへ出かせぎに行っているのだろう。夕食にニワトリを1ドルで買い、食べたが非常に固い。イモ類ではやはりさつまいもが一番おいしい。クッキングパナナは生のとうもろこしみたいであまりおいしくない。食べたカスを外へ投けだすと犬が寄ってきて骨をかじるが、骨がじゃましてこれ以上痩せられないという形容がひったりするほどこの村の犬は痩せこけている。ここには水がないため、すこし下った所にある水をくんでくるのだが、水筒がわりに竹を使っている。節と節との間が日本の竹の倍以上あり、水はたくさんはいるが、意外と飲みにくいものである。山の上の村に夕暮が訪れると、どこからともなくブオーというホラ貝をならす音がして村人は教会へ行く。日曜日の晩■が始まるのであろう。You can seeを連発する奴もいそいそと出かけていった。キリスト教はこんな山の中でどっしりと腰をおろしている。

8月10日
 朝早くボイラを出発し、カナビッツへむかう。きのうニワトリを食べたのがよかったのか今日は楽に歩ける。それにYou can seeと話しているとなかなかおもしろい。彼を呼ぶにも名前を使わず、You can seeである。彼との会話は非常におかしなものである。例えば、『オイ、You can see.What is that?』『You can see?That is a Kokomo.』『フーム、あの白い島はココモってのうのか』『Yes,That is a Kokomo.You can see?』『I can see』『You can see?』『しつこいな、お前は。わかったよ』それからしばらくしてまたあの白い鳥をみつけると、『You can see?That is a Kokomo.』『Yes,that is a Kokomo.』『Good.』『チクショー、バカにしたな』今夜はしかえしをしてやろうと思い、例の鳥が飛ぶと、『オイ、You can see.You can see?』『I can see.』『Do you know that bird's name?』『I don't Know』『O.K.That is a Kokomo.You can see?』『I can see.』こんなくだらない会話をかわしているうちに4時間かかってカナビッツ村に到着した。
 この村はきれいに区画整理されており、クローバーや芝などの緑のジュータンがしきつめられている。家には少し離れてクッキング・ハウスがあり、一対をなしている。我々はカウンシル・ハウスに通され、ボスがガーデンから帰ってくるのを待った。カナビッツから歩いて15分位のところにアタモ村があり、今りっぱな教会を建築中である。木と竹で骨組を作っているが、その上にキエタから運んだトタンが使われている。今年の3月から造り始めて、10月頃にはできるだろうと言っていたが、宗教、キリスト教の底力を感じさせられた思いがする。メラネシアで行なわれてた頭がい崇拝など嘘のようである。
 アタモ村のカウンシルに言葉を聞たいがなかなか思いだせない。今、彼等の言葉はピジョンイングリッシュ(<中国人の>通商英語)であり、彼等のnative languageは使われてないらしい。アラワ村はNasioi Areaに属し、コーペ、ボイラ、カナビッツ、アタモはEivo Areaに属す。そしてNasioiとEivoでは言葉が違ってくる。例えば、髪がNasioiではIPI、EivoではDAKA 目がRUTA、RUTA 耳がDOME、DOMEKA 口がMURI、MIRIKA 歯がSIDA、SIRAKAのごとくである。暗くなってからボス達が帰ってきたが、この村も働き手の多くが出かせぎに行っているらしく村人は少ない。それにやはり若者がいない。ここで暮らすにはのんびりしていていいが、あまりにも刺激がない。生活が貧しいため出かせぎに行った若者も刺激の多い町に出ると、村に戻りにくくなるのだろう。

8月11日
 寒さとハエのため5時頃目がさめる。ここのハエは食物にたからないで人間にたかる。しかもその上、かむらしく時々痛いことがある。全くイヤなハエである。カナビッツには学校があり3人の先生と150人位の生徒(小学生)が学んでいる。また病院も設備されており、医者はひとりいる。ふたたびアタモへ行き戻ってくると村人は皆、ガーデンに行ったのか、残っているのは女と小さな子供だけである。女の人は警戒心をもっているらしく我々をさけるそぶりがみられる。子供達は学校から帰ると弓を使って遊んでいる。女の子はあやとりのようなことをして遊んでいる。原生民の生活は貧しいには違いなが、それでもかなり文明化されている。調理、食器類から時計・ライター・ラジオ・ランプなど彼等の生活に入ってから久しいようである。

8月12日
 激しい雨の中、カナビッツからボイラへ。夜ヤシの実などをもやしてたき火をしていたら、原住民のひとりがTAKOBANというロにくわえ、ふいてならすロ琴ともいうような楽器を持ってきて鳴らしてくれた。ボコボンボコボンタンタンタンという単調だが、静寂の中で響く音は、原始の響きのごとく遠い昔を思いおこさせるようである。

8月13日
 きのうとうってかわって今日はとても日ざしが強い。ボイラからコーペへ。コーペの小学校へ行ったが、のんびりしたものである。授業は2時半までという話だったが、2時前に先生はビールを飲んでいた。子供達はガーデンでイモ掘りをやっている。ここの先生、だいぶズレてるらしく、日本はまだ戦争をやってのるかと質問してきた。さらに日本人は強いと言ってたが日本人は平和を好み、戦争はやらないと答えるとまだ合点がいかないようだった。それでも戦争をやらないのはいいことだと言っていたが、日本はまだ好戦国であると思われてるらしい。夜、コーペのボス達と話したが、ここも日本兵が来たらしく、童謡などよく覚えてのる。それに性に関することもよく覚えている。ボスに子供は何人いると聞いたらI thinkときて次にabout あげくのはてに8人と言ったのが最後にひとりふえて9人になってしまった。やはりのんびりしているのである。彼は選挙で選ばれてボスになり、2年間が任期だと言っていた。この村も6年前から作り始めた新しい村であり、どうも新しい村づくりは、はやりらしい。

8月14日  車を動かそうとしたが、オンボロ車やはりダウン、なんとかならないかと思い5時間ねばったが、どうにもならず車をここに残し
ヒッチハイクでキエタに向かうことにした。車をひろった時に、You can seeがかけよってきて、手をきつくにぎった。そして恐いような顔をしてgood-byを何度も繰返している。さようならYou can see。40ドルの貯金を持っていて、女の子がふたり買える(結婚する)と笑っていたYou can see。さようならAPAUNE(さようなら)、ブーゲンビル!
Ⅵ British Solomon Islands Protectorate
 ソロモン諸島はイギリスの保護領であり、4つの地区に分かれている。セントラル、イースン、ウェスタン、マライタの4つであり、税金も地区によって違っている。現在では7人の選出役員によって内政が行なわれているが、立地条件の悪さ、人手不足(ソロモン総人口約15万人)などが災いして独立への道は険しいようである。以下は各島での見聞記である。

<ガダルカナル島>
B.S.I.P.のメイン都市ホニアラがあり、街にはバスが走っており、博物館、植物園、映画館、三井の経営するスーパーマーケットなどがあるが、まだまだ雑然と並んでいる感はまぬがれない。
 ここは第二次大戦の激戦地であり、現在も使われているヘンダーソン飛行場から街までの間にあるいくつかの川は赤く染まったということである。また今もなお街はずれには米軍の飛行機の残骸や日本の大砲(昭和15年に大阪で造られた九六式十五糎榴弾砲)などがみられる。更にホニアラの北の海はソロモン海戦により日米双方の船が多数沈んでおり、この地区はアイアンボトムと呼ばれ、磁石がきかなくなるそうである。ヤシのプランテーションが多く行なわれ、また開墾作業もみられる。米も作っているが乾期は作らないらしい。住民は昔風の家をすて、コンクリート造りの、いわば文化住宅に住んでいる。

<ナゴターナ島>
 ホニアラから船で約4時間のところにある小さな島で、ここの住民は戦後サンタイサベル島から移住してきたそうである。家屋は日本の入母屋造りと似ており、日本の農家を思わせる。ここで行なわれてる伝統的な漁法にバインフィシィングがある。これは追い込み漁の一種で、山の中へ入りシタを何本もとってきてそれをつなぎ、浜辺へ持っていく。そしてシタを持って沖の方へ泳いでいき、グルリとまわってまた浜辺のほうへ持っていく。15、6人の人が等間隔にシタを持って徐々に浜辺の方へ近づていく。つまり、シタで回った海の中にいる魚をとろうということである。しかもアミでなくスキマばかりのシタで。どの程度とれるものかと思案していたが、最後、魚が逃げないように幾重にもしたシタの中には魚が飛びはねており、信じられないほどの大漁である。原始共同体の中に生活してる彼等は、とれた魚は公平に分けている。
 また、タコを使ったカイトフィシィングも予定していたが、風がなくタコがあがらないので断念した。これはカヌーからタコを上け、そのタコから糸を下げ、その糸の下にクモの糸をからませておくと、魚がクモの糸をかみ、その糸が魚の歯にからみつきとれなくなるものである。

<サンタイザベル島>
 政府の税金とりたて船に乗っていたが、まったくいいかげんな船で予定より62日遅れ、しかも予定通り帰ってきた。南部のボアラ村にはオーム貝で装飾してあるトラディショナルカヌーがみられた。普通のカヌーよりも先端がスーと上にのびているもので、昔は100人近く乗ることができたファイティングカヌーがあったとのことである。ここはマラリアの汚染地区であり、病院がある。。

<マライタ島>
マライタ島はソロモン諸島の中でも特に立地条件が悪く、海から急に山になっているため、人々は海の中に石垣を築きその上に家を造り、水上生活を行なっている。この島には文化人類学者がよく訪れるらしいが、元来は閉鎖的な為に10年前には山の中にはいった警察官や政府の調査官が首を切られたという話があるそうである。ここの住民の中に刺青とは別の、斑痕文身という石英を用い木針で顔に描く一種のケロイド状にするものがみられる。
 現在は使われていないが、結婚の儀式の時に使われるシェルマネーというのがある。貝をたたいて小さな破片にし、それに穴をあける。そしてそれをヒモに通し、丸くしてシェルマネーを作るのだが、今でもなお結婚する時には男の方から女の方へシェルマネーのたばを300本贈らねばならない。そのため男の方は島から外へ出て結婚するのも増えているそうである。。

<ギゾ島>
 飛行場が一つの島からなっており、町は向かいの島にあり船で渡る。南太平洋はどこでもそうだが、ここもチャイナウンが町の大部分を占めている。映画館が一軒あったがなかなか盛況である。ギゾ島の近くにJ.F.ケネディの船が戦争中、日本軍に撃沈されようやくたどりついた島があり、ケネディーアイランドと呼ばれている。
Ⅶ おわりに
 南太平洋は楽園なのか・・・。ヤシの葉影からのぞく大きな月をながめ、潮騒をリズムにギターをかなでる。これが我等にとっての南太平洋のイメージの第一歩だった。
 しかしそれは明らかに優位者の立場に立ったイメージである。原始のままの彼等と比較した時に湧きでたイメージだっだが今南太平年は大きく動きだしてきた。リン鉱石のため、一家に三台も冷蔵庫があるという生活を送っているナウル共和国。"最後の楽園"というイメージを利用して観光地と化したタヒチ。1970年10月に独立したフィージー。さらに1972年独立をめざしているパプアニューギニア、その中のブーゲンビル島では銅開発の為に南太平洋開拓史を展開している。
 確かに現在の南太平洋は現代と原始が共存している。経済的にも政治的にも混頓とした時期である。このような時に我等が南太平洋へ行くということはどういうことを意味するか。民族的にも、文化的にも違う彼
等のところへ行くということは、どういうことなのか。
 今、我等にとって必要なのは、南太平洋もアメリカもヨーロッパも同じであるという認識である。決して、優位者が劣者に対して行なう片棒をかついではならないということである。加害者としてうしろ指をさされるようなことをしてはならない。
 各派のキリスト教が伝道のため南太平洋に度り、現在ではどんなに奥深山の中にもりっぱな教会が造られ、彼等が持ってた原始文化はこともなくほろびていった。私はこれに疑問を感じる。神の名のもとに彼等の文化をほろぼしていったことを。一種のファシズムの脅威を感じる。
 例えば、あなたの家にも見も知らぬ人間が来て、日本の家庭を調査すると言ってしたいほうだいをしたならばどう感じるだろうか。我等は調査する場合にも調査される方の場合も考えなければならないだろう。もはや南太平洋は楽園としては存在しない。
名簿
学年氏名 現住所電話所属
部長石川栄吉 文学部教授
藤森義男
刈谷政則
原田裕介
八木伸太郎
4年大熊進一 経-4
3年江ロ秀俊 経-3
一ツ木俊通 社-3
佐藤継郎 経-3
2年飯塚均 経-2-C
北山健次郎 経-2-D
吉野孝 経-2-C
1年長谷川勇蔵 社-1-E
岩本和夫 経-1-L
北川泰昭 法-1-J
森田親規 経-1-D
佐藤真知子 文-1-G
鈴木隆 経-1-L

[住所や電話番号などは伏せました(行木・2018年)]

編集後記
 原稿、地図、写真とそろえてみても、いかなるものができあがるか見当がつかず、あれこれとやってみた結果がこれなんです。何度くりかえしみなおして、もうみるのもいやだと思った原稿を手ばなすとき、完成への期待と不安が同時にわいてきます。お手伝いしてくだされた方々に、紙面をかりして、お礼を申しあけます。
(Y.K.)

 やっとできました!
 発刊予定はいつだったかなと、心苦しい日々でした。
 この"極限"に、興味を持っていただけたら、そう願っております。
(M.S.)

[原本は製本ミスで54ページと53ページが入れ替わっています(行木・2018年)]

おまけ

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